2006年は村上にとって苦しいシーズンだった。春先の試合で痛めた踵の怪我が完治せぬまま、日本選手権では優勝を守ったものの、シーズン中に日本人選手に2度敗北するという屈辱も味わった。
 今治明徳高校陸上部時代の顧問で現在も村上を指導する浜元一馬氏からは「オマエは日本選手に負けたらもう終わりだ」と、厳しい言葉も浴びせられた。
 村上は言う。「まぁ、自分でもそう思いましたね。やっぱり、怪我していようが何だろうが、その大会にエントリーした時点で、負けてはいけない。『怪我していたから仕方ない』と同情されたらもう終わりだと思いますから」。


 12月には、4年に一度のアジア大会が控えていた。前回大会(02年・釜山)、村上は骨折を押しての出場で銀メダルを獲得した。今回も周囲からは当然、メダルが期待された。
 踵の怪我を完治させるためにも、村上は試合前1カ月間、やりを持った練習をしないという賭けに出た。
「結果を求められる大会」の前に、やりを手にしないことには、もちろん不安はあった。だが「試合は気持ちの問題」と、開き直ったことが、功を奏した。
 結果は、78メートル15を投げ、銀メダルを獲得。前回と同じ色のメダルではあったが、不調のシーズンを、納得のいく結果で締めくくることができた。
「脚の怪我とつきあいながらだらだらと……まあ、言ってみれば面白くないシーズンですね。でも最後にアジア大会で結果が出せた状態で、冬季練習に入れたのはよかった。辛いシーズンをプラスにするのもマイナスにするのも、アジア大会の出来次第だったと思います」
 幸い、1カ月やりを持たなかったことで、シーズンの間悩まされた怪我は完治した。その後の冬季練習では、今までの経験を踏まえながら基本を大事に、じっくりとトレーニングに励んだ。

 シーズンオフの1月中旬には、「結婚」という人生の節目となる出来事も経験した。妻・弥里さんも、元陸上選手。松山大2年の時には七種競技で日本インカレ2位に入るなど活躍したトップアスリートだ。心強いパートナーを得て、新たなスタートを切った村上は、次のように話した。
「競技への理解があるのはやはり有難いですね。結婚するのはそれなりの覚悟と責任がいる。僕の陸上競技の結果が悪ければ、結婚してからダメになったという人もいると思いますし、そうなると辛い思いをするのは相手ですから、それだけはないようにしたい」
「他はそんなに今までと変わらないですよ(笑)」。照れながら村上はそう言うが、人生に大きな「支え」と「責任」が新たに加わったプラス面は大きい。

(写真:練習拠点とする母校の日大グランドにて。練習の合間には学生にアドバイスする)
 迎えた07年シーズン、4月の日本選抜和歌山では、世界選手権B標準を突破する79メートル51で優勝。シーズン初戦のベスト記録を出した。
 今シーズン、大阪世界選手権では予選落ちに終わったが、「記録のアベレージは高い」と村上は言う。04年以来となる80メートル超えへの手ごたえも感じている。
「今シーズン、あと3戦くらい予定していますけど、一度は80メートルを超えたいと思っています」
 そして、来年には北京五輪が控える。
「来年はシーズン最初の大会でA標準(81メートル00)を投げて、精神的に余裕を持ちたい。あとは日本選手権で負けないこと。この2つがクリアできれば、北京五輪には出られますから。あとは、北京五輪で自分の力が出せるように頑張っていきたい」

 五輪での「3投」のために……

 アテネ五輪から3年、技術的な面でも、試行錯誤を続けてきた。「今も模索している状態」と笑うが、やり投げ選手としては、すでに完成の域に来ている。
「『やり投げ人生』ですからね(笑)。この競技をもっと極めたいなという気持ちは強いですね。『これをすれば強くなる』という時期はもう終わっていると思う。あとは、試合当日にどれだけ自分の力を発揮できるか。そのためには実戦的な練習がどれだけできるかだと思います」

 やり投げとともに歩んできた村上は、その魅力について、次のように語る。
「やっぱり、やりが飛ぶというのは気持ちいいですよね。見ている人にも、その気持ちよさを、感じてもらいたいですね。
 調子が良いときは、投げる手前で『あ、イケる』というのが感覚的に分かるんですけど、そういうときは、やりを投げた瞬間から何も聞こえなくなるんです。やりが飛んでいる間、その空間にいるのは、やりと自分だけ――。そしてやりが突き刺さった瞬間に、ワーッという声が耳に入るんです。それだけ集中できているんだと思います」
 5年前の日本大学4年時、日本学生インカレで日本人として3人目の80メートル超えとなる80メートル59を投げたときも、その感覚を経験した。
「自分のイメージと、自分のことを客観的に見ている動きが一致していれば、自分の中の理想の投げができる。そういうときは、すごくラクに投げられるんです。助走の呼吸のイメージだとか、そういうのが全部、自然にできるんです。気持ちも含めてすべてが噛み合った状態なんでしょうね。でも、そんな投げはめったにできないんですけどね(笑)」
 調子が良いときには、自分がイメージがした場所にやりが刺さるのだという。
「すごく、気持ちが良い」というその最高の投てきを、狙った大会でできるようになることが目標だ。

 試合では、予選の3投で結果を出さなければ、次のステージ(決勝)には進めない。その中でも、もっとも重要なのは、「1投目」だと村上は強調する。
「大阪では、1投目に身体が開いてしまって、やりが右に流れてしまった。その失敗が響いた。結局は、1投目ですね。そこでどれだけ80メートルに近い距離を投げられるかで、あとの2投も変わってきますから」
 北京五輪では予選の3投が最大の勝負となる。
「4年に一度の3投(予選の投てき数)ですからね。時間にしたら、30秒もないんじゃないですか。そこで結果を出すために、1年間やるわけですからね(笑)。でも、そのためだけに、やりたいと思います」
 五輪での悲願の決勝、そして入賞への思いは強い。まずは、予選の3投に勝負を賭ける。そこで「やりと自分だけの空間」に出会えるだろうか。
 やり投げ人生の集大成と位置付ける北京五輪まで、すでに1年を切っている――。

(終わり)

村上幸史(むらかみ・ゆきふみ)
 1979年12月23日、愛媛県出身。陸上やり投げ。スズキ所属。中学時代は軟式野球部に所属。高校野球の強豪から勧誘をうけるも、今治明徳高等学校に進学し、やり投げの道へ。めきめきと頭角を現し、97年、インターハイで優勝。98年、日本大学に進学。99年、世界ジュニア選手権で銅メダル獲得。2000年日本選手権で優勝以降、同大会では8連覇中。アジア大会では02年釜山、06年ドーハと2大会連続で銀メダルを獲得。04年アテネ五輪、05年ヘルシンキ世界選手権、07年大阪世界選手権代表(いずれも予選敗退)。






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