2日に閉幕した世界陸上大阪大会、男子やり投げの予選は9月1日に行われた。
 村上は、11時から行われた予選B組に登場。予選通過記録は82メートル00。しかし、9時から行われた予選A組でその記録を上回ったのは4人のみ。8番目の選手までは79メートル台だった。今季、79メートル85を投げている村上にとって、決勝の舞台は本来の力さえ出せば届く位置にあった。予選A組の結果を受け、村上自身も「80メートル投げれば決勝に行ける」と確信していた。


 だが、1投目の助走で左脚がつるアクシデントに見舞われた。「体調は良かったので、あまり気にしないようにした」と振り返るが、1投目は70メートル23、2投目は77メートル63。そして気合を入れて空に放った3投目も75メートル73に終わり、村上の予選突破は叶わなかった。
 終わってみれば、予選通過ラインは、79メートル79。今季に入って79メートル85を投げている村上にとって、悔やまれる結果となった。
 競技を終えた村上は、次のようにコメントを残した。
「体調は良かったが(やりが)左方向に出て、タイミングのずれが修正できなかった。最高のパフォーマンスを出すべき試合で、それが出せなかったのは反省すべき点。1投目に失敗したのもよくない。国際大会は3本しかないので、1投目を大事にしていかないといけない」

 世界陸上最終日の2日に行われたやり投げ決勝は、テロ・ピトカマキ(フィンランド)が金メダルを獲得した。
 2回目に投げた89メートル16で優勝を決めてからも、集中力を切らさず、観客の手拍子に乗って放った6回目の“ウイニングスロー”は90メートル33を記録。観客席はどよめきと歓声に包まれ、ピトカマキは喜びを全身で表現した。
 このとき、村上はピット後方のスタンドから見ていた。「自分もあそこに立ちたかった」という思いを抱える一方で、一観客として「すごい」と胸が躍ったという。
「後ろだったので、横から見たかった。すごかったですね。あの長いやりを、90メートルも投げてしまう。観ていても面白いですよね」
 世界トップのパフォーマンスは、村上の脳裡にしっかりと刻まれた。

 反省と収穫と……

 世界陸上閉幕から1週間。村上が練習拠点とする母校・日本大学のグラウンドを訪ねた。
 大会後は、所属するスズキ本社がある浜松での挨拶まわりを経て、地元・愛媛でオフを過ごしてきたという。「リフレッシュできた」と笑顔で、久しぶりのホームグラウンドに姿を見せた。
 この日の練習は、身体をほぐす程度だったが、「世界陸上以来」、10日ぶりにやりも手にした。

 村上にとって3度目の世界の舞台となった世界陸上を、あらためて振り返ってもらった。
「以前から、80メートルを投げれば可能性はある、と思っていました。今回に関しては79メートルで決勝に進めたので、チャンスでしたよね」
 1投目に脚が攣ってしまい、投てきが崩れたことが、3投目まで響いてしまった、と村上は振り返る。
「やっぱり、1本目ですよね。そこでどれだけ80メートルに近い記録を投げられるかで、あとの2本も変わってくる。1本目が崩れてしまったことが大きかった。
 ただ、緊張やプレッシャーは、僕は全然なかった。動きが良すぎたのが、足の攣りにつながったと思います。いつも通りにやれば、いけた距離、という悔しさもあります。世界大会でいつも通りの投げができなかったというのは力不足ですね」

 その一方で、プラス面、そして今後につながる収穫も大きかった。
「地元・日本開催の世界選手権という大きな舞台で投げさせてもらったというのは、本当に幸運なことだと思う。良い条件の中で試合ができて、(前回大会の)ヘルシンキと比べ、自分を見失わず、自分の流れで試合ができたことはよかったですね」
 そして、村上は続けた。
「『自分の投てきさえできれば、決勝に残れる』という手ごたえも感じました。来年が集大成と思っているので、しっかりとピークを合わせたいですね」
「最大の目標」と見据える来年の北京五輪に向け、すでに気持ちは切り替わっている。

(続く) 


村上幸史(むらかみ・ゆきふみ)
 1979年12月23日、愛媛県出身。陸上やり投げ。スズキ所属。中学時代は軟式野球部に所属。高校野球の強豪から勧誘をうけるも、今治明徳高等学校に進学し、やり投げの道へ。めきめきと頭角を現し、97年、インターハイで優勝。98年、日本大学に進学。99年、世界ジュニア選手権で銅メダル獲得。2000年日本選手権で優勝以降、同大会では8連覇中。アジア大会では02年釜山、06年ドーハと2大会連続で銀メダルを獲得。04年アテネ五輪、05年ヘルシンキ世界選手権、07年大阪世界選手権代表(いずれも予選敗退)。






◎バックナンバーはこちらから