「武南との準々決勝、0−1と負けている大事な場面で交代させられたことが悔しかったですね」
 大木が高校時代を振り返る時、もっとも思い出す試合は3年生のラストゲームではない。93年1月6日、全国高校サッカー選手権大会準々決勝。愛媛県代表・南宇和高校はベスト4をかけて埼玉県代表・武南高校と激突した。

 この年、南宇和ベスト8の原動力となったのが2年生FWの大木勉と友近聡朗である。初戦の室蘭大谷(北海道)戦でそろってゴールを決めると、3回戦では前年度の覇者、帝京(東京)を友近の2ゴールで撃破した。大木がボールを持てば、俊足の友近が相手DFの裏に抜ける。逆に友近がマークされれば、大木が自らシュートを放つ。東京から飛行機、汽車、バスを乗り継いでも到着に半日はかかってしまうような田舎の高校からやってきた2年生コンビは一躍、注目を集めた。

  ボールコントロールは今まで見た中でトップ 

「強烈なインパクトがあったと思いますよ。友近は得点能力の高い子。ペナルティエリアの中に入れば、シュートまで持っていける。一方、大木はその前のゾーンで使える子。南宇和は高さに頼ることが出来ないチームでしたから、すばやくつないで突破するというウチのサッカーにはピッタリでしたね」
 こう語るのは当時、監督をしていた石橋智之(愛光学園教諭)だ。90年には南宇和を初の全国制覇に導いた。南宇和を退職後は愛光学園で体育教師をしながら、愛媛FCのJ昇格にも携わった。愛媛のサッカー史は、この人を抜きにして語れないほどの名指導者である。

 石橋が大木に初めて出会ったのは、まだ彼が中学生の頃。大木もまた、全国制覇を果たした学校にひかれ、実家のある松山を離れる決意を固めていた頃だった。石橋は大木のプレーを見て、驚いたという。
「うちに興味があると聞いたので、見に行ったのですが、一発でほれ込みました。ボールコントロールが素晴らしかった。今までいろんな選手をみてきましたが、後にも先にもボールコントロールでは彼が1番です。体もでかく、本当に中学生かという感じでした」

 小学2年生のとき、兄に連れられて大木はサッカーを始めた。最初から絶対的なFWというわけではなく、いろんなポジションを経験した。中学時代はサイドハーフのポジションをやっていた。「運動量の少ない中盤でしたよ」と本人は笑うが、ボールさばきは群を抜いていた。

 大木のプレーを見た石橋は中盤ではなく、FWへの配置転換を決める。
「中盤より前線でキープしてくれるほうが、みんなが前を向いてプレーできる」
 上級生のレギュラーFWのケガをきっかけに、温めていたプランは実行に移された。それは大木が高校2年生のときの出来事だった。

 優勝できるチームだった……

「自分にFWが合っていたかどうかわからないけど、とまどいはなかった」
 大木は比較的すんなりと新たな働き場にフィットした。そして、1年時から前線で点取り屋を務めていた友近との歯車もきれいにかみ合った。
「まさにストライカー。“なんで、そこにおるの”と思うことが何度もあった。ゴールに対する嗅覚がずば抜けていた」と大木が相手を評すれば、「一言で言えば、“顔に似合わないプレーをする男”。見た目ではパワープレーが得意そうですが、ボールタッチがやわらかく、ボールを出してほしいところにちゃんと出してくれる」と友近は大木の良さを語る。

 大木、友近の2年生2トップを支えるメンバーも当時は豊富だった。1学年上にはDF・谷口圭、MF・北内耕成(元サガン鳥栖)、1つ下にはDF・吉村光示(横浜F・マリノス)らがいた。後にJリーガーとなる人材が集まっていた。
「全国制覇した年より攻撃力は上。優勝できるチームでした」
 石橋もその実力を認めていた。そして、実際に王者・帝京に2−0と快勝したことで、優勝の2文字はますます現実味を帯びていた。

 しかし、トーナメントは何が起こるかわからない。準々決勝・武南との一戦は苦しい展開となった。帝京戦で友近のゴールをいずれもアシストした北内が負傷退場。その友近にしても足首をケガしていた。そして大木も動きがいまひとつ。チームが勢いにのれないうちに、DFが一瞬のスキを突かれて先制のゴールを許す。
 
 1点を追いかけたい南宇和。石橋はカンフル剤として大木を代える決断をする。
「どうしても勝ちたかった。優勝なんてそうそうできるもんではない。もう1度、優勝したかった」
 決断の理由を口にした石橋の言葉からは10年以上前の出来事にもかかわらず、まだ悔しさがにじみ出ていた。ベスト8まで友近とともにチームを引っ張ってきたポストプレーヤーは試合終了のホイッスルをピッチではなくベンチで聞いた。

 翌年も南宇和は全国大会に出場したが、初戦でまたもや武南にPK戦の末、敗れた。南宇和史上、黄金の2トップとも言われた大木−友近コンビは全国を制することはできなかった。

 それから13年の月日が流れた。愛媛に戻って現役を続ける大木に対し、友近は06年に現役を引退し、参議院議員になった。今シーズン、友近はスタンドから大木のプレーを見つめている。
 ある試合のことだ。大木がワンタッチでゴール前にフワッと浮かせた球を供給した。そのとき、友近は心の中で叫んだ。「そう、それがオレのほしかったボールだ」。10年以上たってもお互いの呼吸はズレていなかった。もう現役に未練のなかったはずの友近が一瞬だけ、「大木ともう1度、2トップを組みたかった」と感じていた。

 もうあの頃には戻れない。しかし、2人がブルーのユニホームに身を包み、躍動した思い出は2人と、それを見た人々の心に今でも強く刻み込まれている。

(第3回へつづく)


大木勉(おおき・すすむ)プロフィール
1976年2月23日、愛媛県松山市出身。ポジションはFW。南宇和高時代は同学年の友近聡朗と2トップを組み、2年時は全国高校サッカー選手権でベスト8入りを果たした。青山学院大を中退し、95年、サンフレッチェ広島に入団。デビュー戦(対柏レイソル)で初ゴールを決める。その後は故障に悩まされ、00年には大分トリニータへ期限付き移籍。翌年からは再び広島に復帰した。久保竜彦、佐藤寿人ら日本代表クラスのFWとともにプレーし、その持ち味を引き出すスタイルは高い評価を受ける。07年より故郷の愛媛FCに移籍。これまでのリーグ戦通算成績はJ1で154試合出場28ゴール、J2で51試合8ゴール。177センチ、75キロ。背番号20。






(石田洋之)
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