田中幸長が野球を始めたのは、4、5歳の頃だった。3つ上の兄がリトルリーグに入って野球をやっているのを見て影響されたのか、物心ついたときには兄の真似をしてバットを振っていたという。
「両親は、特に野球が好きだったわけではなかったのですが、おじいちゃんの部屋でよく甲子園を一緒に観ていた記憶があります。甲子園での高校球児や兄を見て憧れたんでしょうね。早く自分もリトルリーグに入ってやりたくて仕方ありませんでした」

 小学1年になると田中は早速、地元の「えひめ港南リトルリーグ」に入団した。現在、プロ野球の第一線で活躍しているヤクルトの藤井秀悟はこのチームのOBである。全国大会にも何度か出場し、四国では屈指の強豪チームだ。

 身体能力の高かった田中は、自然とピッチャーを任された。えひめ港南では年齢によってA〜Cチームに分かれている。どのクラスでも「エースで4番」とチームの中心選手だった田中は、特にバッティングには自信をもっていた。

 奇跡の勝利

 リトルリーグは4月30日時点で12歳であれば、満13歳となる中学1年でも参加することができる。2月生まれの田中はその対象者だったため、中学1年時には学校ではソフトテニス部に所属しながら、リトルリーグを続けた。
 その年、えひめ港南リトルリーグは5年ぶり4度目の全日本リトルリーグ野球選手権に出場を果たした。優勝を決めた四国大会決勝戦は、今も強く印象に残っているという。

「5回まで僕らのチームは0−4で負けていたんです。ヒットは出ていたのですが、なかなか得点に結びつかなかった。
 4点ビハインドで迎えた最終回(6回)、ベンチはもう敗戦ムード一色でした。下位打線からだったので、4番の自分にはまわってこないだろうから、と僕も半ば勝負を諦めていました。
 ところが最終回の6回、次々とヒットが出て追い上げていったんです。おそらく、相手のピッチャーが勝ちを意識してプレッシャーを感じたんでしょうね。もう、流れは完全に僕らのチームに傾いていましたから、『大事な場面でくるな』と覚悟しました。
 案の定、1点差で僕に打順がまわってきました。もうそのときには完全にチームが勢いに乗っていたので、打席に入っても全く不安はなかったですね。僕のタイムリーで同点になって、その後も2点を追加し、一挙に6点を奪って大逆転。その時のベンチの盛り上がりといったら、そりゃもう、すごかったですよ。もし今、あんなミラクル的な試合をしたら、感動して泣くかもしれないですけど、当時は小学、中学生でしたから、みんなはしゃぎまわっていました(笑)。
 実は全国大会に出場することよりも、東京に行けることが自分たちには嬉しかったんです。帰りの車中では試合そっちのけで『ディズニーランドにも行けるらしいよ』なんてことばかり話していました。帰宅してから改めて『オレ、東京に行けるんだぁ』と思ったら興奮しちゃって、その日の夜はなかなか寝付けなかったことを覚えていますね」

 翌日、早速クラスメイトに全国大会出場を自慢したという。みんな「すごいなぁ」と言って褒め称え、東京に行けることを羨ましがった。通っていた中学でリトルリーグに所属していたのは田中一人ということもあり、ちょっとしたヒーローだった。

 そして迎えた全日本選手権。全国から代表16チームが東京に集結した。優勝チームには世界大会につながる極東選手権への切符が手渡される。
 1回戦、えひめ港南は旭川北稜(北海道)と対戦し、19−2の大差で初戦を突破した。過去4回出場しながら1度も勝ったことがなかったえひめ港南にとって、これが記念すべき初勝利だった。

 リトルリーグは土日で大会を終えなければならない。そのため、ダブルヘッダーはザラだ。その日も、すぐに2回戦が行なわれた。相手は神奈川代表の瀬谷。全日本選手権常連の名門チームで、優勝候補の一つにあげられていた。
「もう、体格からして比較にならないほどの差がありました。四国の田舎から出てきた僕らとは違い、見るからに『都会』という感じ。試合前から圧倒されてしまっていましたね」

 初戦でエースのカードを切っていたえひめ港南は、2番手ピッチャーを送り込んだ。予想通り、序盤から大量点を奪われたが、終盤にえひめ港南も急ピッチで追い上げた。もう少しで追いつくところまで詰め寄ったが、結局11−14で敗北を喫した。翌日、準決勝を勝ち抜き、決勝まで進んだ瀬谷は2度目の準優勝に輝いた。

「優勝候補だったとはいえ、競っていただけに、負けたときはみんな泣いていました。僕らにとっては、初勝利の喜びよりも負けた悔しさのほうが大きかったんです」
 勝つことの難しさ、負けることの悔しさを教えてくれた初の全国の舞台はこうして幕を閉じ、田中は7年間、練習に明け暮れたリトルリーグを卒業した。

 ケガとの戦い

 小学6年まで“エースで4番”とチームの大黒柱を担い、順風満帆に見えた田中だが、実は大きな悩みを抱えていた。それはヒジの痛みだった。
「いつから痛くなったのか、はっきりとは覚えていませんが、ヒジはずっと痛かった。でも、チームのことを考えるとなかなか言い出せなくて……。おそらく、投げ過ぎと全くケアしなかったことが原因だと思います。病院で診てもらったりもしたのですが、良くなることはありませんでした。だから両親や監督には『もう、治った』なんて言って、ごまかしながら投げ続けていました。でも、最後の1年間(中学1年)はあまりの痛みに投げることができなくなってしまい、キャッチャーに転向しました」

 リトルリーグで4番を務め、全日本選手権でチームを初勝利に導いた田中は、当然シニアリーグから誘いの声がかかった。だが、彼はそれを断った。ヒジを休ませるために1年間、野球を封印することにしたのだ。
 1年後、再びシニアに誘われた田中は、「もうヒジも大丈夫だろう」と入団することを決意した。ところが、いざやり始めると、またすぐに痛みが再発した。もうピッチャーでやることは不可能だった。シニアでの田中のポジションはサードとなり、それからは自分の得意とするバッティングにより一層磨きをかけた。

 田中がピッチャーとしてマウンドに上がることはその後、一度もない。だが、早い時期からバッターに専念したからこそ、今の田中があるのかもしれない。


田中幸長(たなか・ゆきなが)プロフィール
1986年2月1日、愛媛県伊予市出身。小学1年からえひめ港南リトルリーグに所属。中学1年時には4番としてチームを全国大会ベスト8に導いた。宇和島東卒業後、早稲田大学に進学。ベンチ入りを果たした1年秋には初打席から2打席連続代打本塁打を記録し、注目を浴びた。2年春から4番に座る。大学での通算本塁打は7本。昨年11月に97代目主将に就任した。178センチ、82キロ。右投右打。









(斎藤寿子)
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