「自然体でやりますよ」
 アテネに出発する前、鈴木桂治は私にこう言った。相手を過度に意識しない。秘策に頼らない。そのことを自らに言い聞かせて決戦の地に向かった。
 24歳がこうした境地に至ったのには理由がある。福岡での敗北が“良薬”の役割を果たした。不必要な“斜眼帯”を取り払ったと言うこともできる。
 福岡では“打倒・井上康生”を意識し過ぎる余り、自らの持ち味をも殺してしまった。
「康生さんとやるまでは負けられない」との意識が強く働き過ぎて、攻めの柔道ではなく受けの柔道になってしまった。
 福岡では井上康生の兄・智和にそこを突かれた。谷落としをくらってのまさかの一本負け。硬い氷柱が小さな金属のビスが打ち込まれただけで木っ端微塵に砕け散るように、過剰な使命感は畳の上で粉砕された。この時の敗北の記憶を彼は教訓にかえようとしていた。

 100kg級と100kg超級とでは重さも違えば、当たりの強さも違う。昨年秋の大阪での世界選手権、無差別級で優勝を飾っているとはいえ、100kg超級とはまた勝手が違う。
 しかし、そのことを意識をし過ぎると、福岡の轍を踏む。思索での柔軟性を失えば、組み手もどこかぎこちなくなる。相手の弱点を突くのではなく、自らの長所をいかす――。その不退転の決意が「自然体」という言葉に凝縮されているように感じられた。

 アテネ五輪100kg超級、決勝。
 相手はロシアの“怪豪”タメルラン・トメノフ。まるで白熊のような体をしたこの男は、このクラスでも破格のパワーを誇る。184cm、110kgの鈴木桂治が華奢に見える。

 実はアテネに行く前、彼は親友の棟田康幸に最重量級での戦い方を訊ねた。棟田は世界選手権を含めて3度、この大男と戦い、3度とも勝っている。
「100kg級と100kg超級とでは力強さが全然、違う。力が強いため、どうしてもこちらは(畳の端まで)追い詰められる。技に入られた時の一発の威力は100kg級の比ではない。組み手にしても奥衿を掴んだり背中を持ってくる。これにどう対応するか。あの緊張とスリルはちょっと言葉にできないほどです」

 開始早々、相撲の寄り切りのような格好で畳の外に押し出された。前に出る圧力の差は歴然としていた。
 しかし、五輪初制覇に賭ける24歳は冷静さを失わない。直後、目にも止まらぬ小内刈りでロシア人を横倒しにした。ポイントにこそならなかったが、これでタイミングを掴むことに成功した。
 組み勝って相手の身体を揺さぶることは難しい。しかし、前に出る力を逆に利用することならできる。足技をコントロールする管制塔のセンサーが作動した。

 1分17秒、前に出ようとしたロシア人の右足を鋭く刈った。電光石火のような小内刈り。またしても黄金の左足だ。内の次は外。朽ち木が倒れるように大男が横転した。次の瞬間には日の丸が翻るスタンドに向けて、もうガッツポーズをつくっていた。
 世界最高の足技――。悲願を達成し、日本柔道の威信を守ったのは、やはり“伝家の宝刀”だった。

 彼を初めて見たのは、今から6年前のことだ。高校3年で臨んだ講道館杯で史上最年少優勝を飾った。まだ体の線も細く、組み手に力強さは感じられなかったが、足技は恐ろしくよく切れた。
 国士舘大学に進学後、しばらくして話を聞きにいった。忘れられないのは当時、柔道部の助監督をしていた山内直人の一言だ。
「あの足技は天性のものです。世界と戦う時に必ず大きな武器となります」

 その予言が的中した。
 少年時代はサッカーをやっていた。ポジションはFW。茨城県では名の知られたFWで、Jリーガーになろうか、柔道で五輪を目指そうか悩んだ時期もある。最終的に柔道を選択した判断は正解だったが、仮にサッカーの道に進んでいても、彼の身体能力と精神的なタフネスをもってすれば、日本代表クラスのストライカーになっていたかもしれない。

 今年の2月、神戸市内で谷亮子と食事をする機会があった。鈴木桂治の足技について訊ねると、名解説者でもある彼女はこう言った。
「足が生きている選手はたくさんいるけど、桂治君の場合は指が生きているのよ」

 ここまで聞けば、本人に直接会って確かめるしかない。「指が生きている」とは、どういうことなのか。乱取りの相手はできなくても、足を貸すくらいならできる。
 鈴木桂治のレッスン。
「普通の選手の場合、たとえば小内刈りをかける際、足の裏でくるぶしの裏をポーンと叩く感じなんです。ところが僕の場合は、草刈り鎌みたく、指で刈り込むんです。これは斉藤(仁)先生から教わったものです」
 続いて実技指導。ほんの一瞬、軽く足をかけられただけで80kg近い私の体は宙に浮いた。私の足首に指でフックされた跡が生々しく刻まれた。

(つづく)

<この原稿は2004年9月16日号『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>
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