「オレ、早稲田で野球やるわ」
 2003年7月28日、地方大会決勝で宇和島東は今治西に敗れ、田中幸長の夏が終わった。結局、一度も甲子園の土を踏むことはできなかった。
 そんなある日、母親に進路について聞かれた。何のためらいもなく自然と田中の口から出てきたのが先の言葉だった。

 田中にとって早稲田大学への進学はそれまではっきりと意識こそしていなかったものの、単なる閃きではなかった。
 彼には昔から尊敬している先輩がいた。5歳年上の越智良平である。宇和島東から早稲田に進学し、4年時には主将としてチームを牽引した人物だ。

「自分にとって越智さんは、子供の頃からずっと憧れの先輩でした。その越智さんが早稲田でキャプテンとして活躍しているのをよく耳にしていました。だから無意識に自分も早稲田に行くものだと思っていたんです」
 そして田中は2度のセレクションを受け、見事スポーツ科学部スポーツ推薦(スカウト)入試に合格。2004年4月、晴れて100年以上の歴史を誇る早稲田大学野球部の一員となった。それから9カ月後、田中は鮮烈なデビューを飾ることになる。

 リーグ史上初の快挙

 2004年9月25日。明治大学とのカードが組まれた六大学秋季リーグ戦第3週初日。この日、初めて25人のベンチ入りメンバーに名を連ねた田中は早稲田が4点リードで迎えた最終回に代打としてリーグ戦初の打席に立った。

「実は、この試合前のシートノックで暴投してしまって、『ボール拾いしてろ!』って外されたんです。初めてのベンチ入りなのに試合前にそんなことがあって、一度は『もうこれは、終わったな』ってへこみました。でも、すぐに思い直したんです。『いや、まだチャンスはある。試合で打てばなんとかなるかもしれない』と。そしたら、本当にチャンスが与えられたんです」

 まさに田中にとっては監督への信頼を取り戻す絶好のチャンスだった。だが、初めての公式戦である。打席に立った田中の足は緊張で震えが止まらなかった。
「ここで打たなければ、今後はないんだ」。そう自分に言い聞かせ、スタンドからの応援も全く耳に入らないほど、田中は集中した。
「カキーンッ!」
 次の瞬間、打球はレフトスタンドへと消えていった。

「打ったのは内角のストレート。完璧にホームランを狙っていました。スタンドにボールが入ったのを見て“あれ、本当に打っちゃった”という感じでした(笑)。一人でダイヤモンドを一周するのが、なんだかすごく恥ずかしくて……」

 そして、田中の本当の偉業は翌日の明治との第2戦だった。5−3と早稲田2点リードで迎えた7回裏、またも代打に起用された。今度は外角高めのストレートをフルスイングすると、ボールはレフトのポールに直撃した。初打席から2打席連続のホームランである。これは1925年から続く六大学野球の歴史の中でも初の快挙だった。
 その後、明治に追加点を奪われて詰め寄られたが、なんとか1点差を凌ぎ切った早稲田。試合を決めた6点目は、田中のソロホームランだった。

 試合後のロッカールームで田中に握手を求めてきた者がいた。野村徹監督である。
「野村監督は早稲田をチーム史上初のリーグ戦4連覇(02年春〜03年秋)や10戦全勝の完全優勝(03年秋)に導いた、すごい人です。そんな偉大な監督が1年の僕と握手を交わしてくれたんです。もう、言葉にならないほど嬉しかったです」

 4番からスタメン落ちへ

 その年、野村は6年間の監督生活に別れを告げ、早稲田を去っていった。代わりに監督の座に就いたのが現在の應武篤良である。
 應武は2年になったばかりの田中をオープン戦から4番に座らせた。予想外の出来事に、田中は驚きを隠せなかった。プレッシャーを感じながらも、オープン戦では好成績をおさめた田中。ところが、リーグ戦に入るなりパタリと快音が聞かれなくなってしまった。みるみるうちに打率は下がっていった。それでも應武は黙って田中を4番で使い続けた。

「もう、どんなボールも打てる気がしませんでした。打率1割台になっても、監督は僕を4番から外そうとしない。何よりそのことが苦しかった」

 田中の調子とは裏腹に、チームはトップを走り続けていた。優勝をかけて臨んだ慶應大学との3連戦。初戦、0−0で迎えた5回表、早稲田は2死満塁のチャンスを迎えた。打席にはこの試合も4番に座った田中が立った。
「調子は全く戻っていませんでした。いつもはバッターボックスでいろいろと考えてしまうのですが、その時はとにかく思いっきり振ることだけに集中しました」

 迷いが消えた田中のバットから、久しぶりに快音が聞かれた。打球は勢いよくレフトスタンドへ飛び込んだ。先制の満塁ホームラン。結局、これが決勝点となった。早稲田が4−2で慶應を下し、いよいよ3季ぶりの優勝に王手をかけたのである。早稲田が10勝4敗1分、勝ち点5の完全優勝を飾ったのは、この3日後のことだった。

 だが、それでも田中は調子を取り戻すことはできなかった。6月に行なわれた全日本大学選手権でも4番らしい仕事ができないまま終わった。
 
 不振にあえぐ田中に転機が訪れたのは、その年の秋のリーグ戦だった。春に続いて4番を任せられた田中だったが、2試合連続無安打に終わると、さすがの應武もしびれを切らしたのか、7番に降格させた。そしてついには、先発メンバーから外されるようになっていった。
「いざ外されると、やっぱりショックでした。でも、外側から客観的に試合を観ることで、気持ちにも余裕が出てきました。
 そしたら、他のバッターを見ていて自分の欠点に気付いたんです。自分は打てなくなればなるほど気持ちが焦り、前に突っ込んだ状態で打っていたんです。しっかりと重心を後ろに残せば、ボールも見えるし対応しやすくなるのでは、と思って早速練習で試したりしていました」

 最終週の慶應戦、10試合ぶりに4番スタメン入りを果たした田中は4打数2安打、打点3の好成績をマークした。
「スタメンから外されてベンチから客観的に試合を観れた、ということが自分にとっては非常に大きかったですね。苦しかったけど、4番として自分を使い続けてくれた監督にも感謝しています。今ではボロクソに言われますけど、その時は本当に何も言われなかった。それも自分を成長させるための厳しさだったのだと思います」

 自信を取り戻した田中は、翌年の春季リーグではホームランと打点で2冠を獲得。初めてベストナインにも選ばれた。秋季リーグではチームが3季ぶりの優勝を果たし、個人としても2度目のベストナイン獲得。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

 だが、意気揚々と臨んだ明治神宮大会では決勝で亜細亜大学に5−2で敗れ、準優勝に終わった。試合後、4年の先輩たちは泣き崩れた。田中は4番を任せられながら、優勝させてあげられなかった自分を責めた。

「来年は絶対にこんな思いはしないぞ。必ず勝って喜びの涙を流そう」
 そう心に誓いながら、田中は目に焼付けるかのように悔しさで震える先輩たちの背中をいつまでも見続けていた。
 
田中幸長(たなか・ゆきなが)プロフィール
1986年2月1日、愛媛県伊予市出身。小学1年からえひめ港南リトルリーグに所属。中学1年時には4番としてチームを全国大会ベスト8に導いた。宇和島東卒業後、早稲田大学に進学。ベンチ入りを果たした1年秋には初打席から2打席連続代打本塁打を記録し、注目を浴びた。2年春から4番に座る。大学での通算本塁打は7本。昨年11月に97代目主将に就任した。178センチ、82キロ。右投右打。









(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから