マツバラで結果を残した三浦だったが、87年10月に契約が切れた後、次のクラブがなかなか決まらなかった。ポルトアレグレにある名門インテルナシオナルとは一度契約がまとまったが、サインには至らなかった。

(写真:CRBの事務所には「三浦知良」との当時の契約書が保管されていた)
 三浦が向かったのは、今度はサンパウロから遠く離れたマセイオという街だった。
 マセイオは、ブラジルの北東部にあたり、大西洋に面した、アラゴアス州の州都である。椰子の木が立ち並ぶ、美しい海岸線を持つ。
 ブラジルのある一定以上の都市になると、必ず人気を分け合うクラブが2つ以上ある。マセイオの場合、CSA(Centro Sportivo Alagoano)と三浦の移籍したCRB(Clube de Regatas Brasil)だった。
「あの時は、街の全員がカズのことを知っていたもんだよ」
 現在、コリンチャンス・アラゴアノの下部組織でコーチをしているサウロは、三浦と共にCRBでプレーしていた。

 ブラジル人が一般的に好むのは攻撃の選手で、なおかつ相手の守りの選手を、悪い言葉で言えば、欺き、馬鹿にするように抜き去り、得点を決める選手である。
 献身的にピッチを走り回る体力よりも、技術や間合いといった数量化できないものが重視される。そこに、勤労を嫌い、少ない努力で最大の成功の果実を得ることを夢見るブラジル人の性質を見ることもできるかもしれない。

 三浦は、熱心に練習する勤勉な性格であったが、ピッチの中の姿はまさにブラジル人の好む選手だった。人を食ったようなフェイントで相手選手を抜き去り、観客たちは喜びの声を挙げた。
 CRBで日本人として初めてブラジル全国選手権に出場。チームは予選で敗退したが、6試合に出場して4アシスト、テレビでは“カミカゼ・ドリブル”と称された。

「カズが赤色のバギー、僕が緑色のバギーを持っていたんだ。移動の“足”があったのは僕ら2人だけだった。だから、他の選手の練習の送り迎えしていた。当時は練習が1日1回だったので、練習が終わるとみんなを乗せて、フランス海岸まで行ったこともあった。あの時は道も悪くて、2時間ぐらいかかった。海岸のバールがあって、そこで魚料理を食べたものだよ」
 フランス海岸とは、マセイオで最も人気のある美しい海岸である。ビーチパラソルが立ち並び、サーフボードを持った褐色の少年たちが闊歩している。
 4人しか乗れないバギーに6人以上が乗り、タイヤがハの字になってしまったんだとサウロは笑った。
 三浦の明るい性格は、この海沿いの街に合っていた。
(写真:マセイオの街で、三浦が乗っていたのもこうしたタイプのバギーだった。現在は公道を走るのは禁じられている)

 試合の後、ラジオ局のマイクの前で、「今日の気持ちは」と尋ねられて演歌や彼のお気に入りのシャネルズの歌などを歌うこともあった。
 CSAのオーナーである、後に大統領となったフェルナンド・コロールは、「ガゼッタ」という新聞を保有していた。本来はCSAの記事が多いはずなのだが、新聞記者に気に入られていた三浦の記事がいつも多めに扱われていた。
 強い太陽が燦々と照りつけ、褐色の美女たちが闊歩する美しい海岸があるこの街での生活は楽しいものだった。ただ、この街に長くいられないこと、いてはいけないことも三浦は分かっていた。

 ブラジルでの初ゴール

 88年2月サンパウロ州1部リーグのキンゼ・デ・ジャウーに三浦は移籍した。
 ブラジルでプロサッカー選手として、足場を築きつつあることを三浦は実感していただろう。ただ、自分が1得点も挙げていなかった。当時、彼のポジションはウィングプレーヤーであり、得点よりもアシストを期待されていた。ただ、ブラジルでは得点を挙げることは、何より評価に直結する。

 カメラマンの西山幸之は、子供の頃、両親と共に船でブラジルに移民した。サッカー専門誌からの依頼で、三浦を追い続けていた。西山もまた、三浦の初得点を強く望んでいた人間だった。初得点の写真を撮るために毎試合マツバラにも、CRBにも足を運んでいた。
 試合前、三浦は西山の顔を見ると「今日は獲るからね」と声を掛けることが日課になっていた。マラドーナやジーコのゴール集を見て、得点を挙げた時に見せるポーズの練習までしていた。しかし、その機会はやってこなかった。

 88年3月19日、サンパウロで最も人気のあるチーム、コリンチャンスとキンゼ・デ・ジャウーは対戦した。
 西山はいつものようにゴールの後ろで試合を見ていた。何度カメラを構えても三浦はシュートを打たない。三浦の初めてのゴールは絶対に撮ると約束していたが、半ば諦めていたのだ。
 前半も終わりにかかったころだった。サイドからのクロスボールが中央にいるカズのところに入った。この時、西山は一眼レフカメラの準備ができていなかった。とっさにサブで使っていたコンパクトカメラを向けた。

<ピントが合っていてくれ>

 オートフォーカスが三浦に焦点が合うように祈るようにシャッターを押した。 初得点――この1点もありキンゼ・デ・ジャウーはコリンチャンスに3対2で勝利を収めた。現像してみると、ヘディングをする三浦の姿が綺麗に写っていた。

 名門コリチーバからサントス、そして日本へ――

 翌年の2月には、全国的に広く名前を知られるコリチーバと契約を結んだ。
「カズがコリチーバに来た時は、最低の雰囲気だった。ブラジル全国選手権で5連敗して、もう後がなかった。残り15分ほどでカズがピッチに入ると、素晴らしいドリブルで相手のディフェンスをかき回して、サイドからクロスボールを挙げた。それが決勝点になったんだ」
 当時、コリチーバのサッカー部門のディレクターだったマウリシオ・カルドーゾは当時をこう振り返る。
(写真:コリチーバのスタジアム)

「翌年、監督がエドゥー(ジーコの実兄)に変わって、素晴らしいチームになった。パラナ州選手権でも優勝したしね。ただ最後にケチがついた。それが残念で仕方がない」
 ブラジル全国選手権で、コリチーバは他のクラブと平等になるように日程の変更を申し出た。それは聞き入れられなかったため、1試合ボイコットしたところ、それ以降の出場停止、翌年2部への降格という処分になった。
「あのチームはコリチーバでも最も強いと言う人もいた。しかし、その処分で選手はばらばらになった。カズはサントスに行ってしまったんだ」
 90年2月、三浦はサントスと契約したが、7月には日本に帰国し、読売クラブへと入団した。7年半のブラジル滞在だった。

 今、ブラジルのサッカーは彼の時代と大きく様変わりしている。
 元CRBのサウロが働いている、コリンチャンス・アラゴアノは現在のブラジルのサッカーを象徴している。
 バルセロナのデコ、ベルダー・ブレーメンのマルセリーニョ・パライーバを輩出していながら、一般的にはクラブの名前は知られていない。この時、コリンチャンス・アラゴアノはアラゴアス州の一部リーグにも属していなかった。1部に昇格すると、リーグ戦を維持するために、それなりの選手を集めなければならないので出費がかさむ。それよりも2部で選手を育てて、欧州に売ったほうがいい。それがクラブの方針だった。

 ブラジル国内のリーグは空洞化している。91〜94年、ブラジル代表の監督だったパレイラは国内リーグの試合を見て「代表に呼ぶとするならば、テベス(アルゼンチン)、ペトコビッチ(セルビアモンテネグロ)ぐらいかな」と外国人選手の名前を挙げて、自嘲気味に語っていた。
 ソクラテスは現在のブラジルのサッカーについて「ブラジルの伝統を引き継ぐ前に、欧州へと旅立っている。そして欧州流の肉体重視のサッカーに馴染んでしまって、良さが失われている」と嘆く。
(写真:CRBの下部組織の少年。ボールをひたむきに追いかける少年たちがいる限り、ブラジルサッカーが衰えることはないだろう)

 ブラジルの人々はロビーニョ(現レアル・マドリー)がサントスに現れた時、熱狂した。それは彼のプレーの中に、古き良き時代の香りを感じたからだ。
 古き良き時代――三浦がいたのはその時代の終わりだった。三浦のことを、今も人々が覚えているのは、ブラジルの良き時代の香りを漂わせていたからに他ならない。

 ブラジル国内のサッカーが輝いていた時、誰もが憧れたスタジアムがある。それは当時の三浦が繰り返し語っていた夢のスタジアムでもある。
「まずは、マラカナンで試合をすること。その後、日本代表としてワールドカップに出たいんだ」
 カメラマンの西山は三浦の無邪気に語るその顔を今も時々思い出すことがある。
(写真:三浦も憧れたマラカナンスタジアム)

 その夢はどちらも叶っていない。コリチーバが出場停止にならなければ、次の試合はマラカナンで行われるはずだった。
 彼の人生は栄光で包まれているように見えるが、決して全てを手に入れたわけではない。その切なさに人は惹かれる。

 本当に大切なものをまだ得ていない。だから彼の長い旅は続いている――のかもしれない。


田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。




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