96年2月――。 
 イタリアはまだ寒かったことを覚えている。空気は乾いており、気温よりもずっと寒く感じた。今から12年前、僕にとっては生まれて始めての欧州だった。

(写真:スイスでは当時国際サッカー連盟の事務局長だったゼップ・ブラッターにインタビューを申し込んでいた)
 僕は、「週刊ポスト」という雑誌の編集部で働いていた。当時の男性週刊誌は、「週刊ポスト」「週刊現代」「週刊文春」が激しく部数を競っていた。それぞれがスクープを連発し、号によっては部数が百四十万部を越え、それが完売していた。インターネットのなかった時代で、週刊誌メディアは最もビビッドな存在であり、発売日前に雑誌を手に入れたテレビのワイドショーは記事を後追い取材した。

 この時、僕は、俳優の勝新太郎とジーコの2本の連載を担当しながら、「スポーツポスト」「パソコンポスト」などのムックを立ち上げ、自由に動き回ることが許されていた。
ジーコの連載は、2度目だった。彼が付き合いのあった選手たちを語り、その選手がそれに答えるという形式になっていた。

 レオナルドやジョルジーニョのように当時日本でプレーしていた選手は簡単に話が聞けた。ブラジル人選手については、ジーコと会うためにブラジルに行く時に合わせて取材を済ませた。問題は、欧州にいる選手だった。他人に質問事項を渡して聞いてもらうことも考えたがも、出来れば自分が会って話をしたいと思っていた。

 この連載の取材を集中的に片付けること、その他に2002年ワールドカップ招致についての取材をするという条件で、編集長を説得し、ようやく欧州出張が認められた。イタリアから、ドイツ、スイスを一週間ほどで回るという強行軍となった。


 まずは、イタリアのミラノを経由してパルマへ。
青と黄色のユニフォームのパルマはこの時、セリエAの強豪クラブの一つだった。
 ディフェンダーにファビオ・カンナバーロ、フェルナンド・コウト、ネストル・センシーニ。中盤には、ディノ・バッジオ、フォワードには、フィリッポ・インザーキ、エルナン・クレスポと、代表クラスの選手が揃っていた。
(写真:イタリアの街は、人を惹き付ける、不思議な空気がある。車をゆっくりぶつけながらスペースを作り、駐車する風習がまだ残っていた)

 連載に出て欲しいと考えていたのは、94年ワールドカップでブルガリア代表を準決勝に導いたフリスト・ストイチコフ、イタリア代表だったジャン・フランコ・ゾラの二人だった。彼らに話を聞きたいと、パルマの広報に連絡をとると、それほど時間を取らないのであれば練習場所で直接本人たちを捕まえてくれて構わないという返事だった。

 僕は、通訳のイタリア人、ファブリツィオと共にパルマの練習場に向かった。ファブリツィオは端正な顔をした白人で、大阪に住んだ経験があった。
「日本人女性と真剣に付き合ったことがある。彼女の家族に挨拶に行ったら“イタリア人はナンパだから好かん”と言われてショックだった。大阪にはナンパ橋とかあるでしょ、あそこにいる日本人はイタリア人よりもずっとナンパしているよ、と心の中で思った」
 彼はそう言って笑った。

 練習場に繋がる、駐車場で待っていると、次々と高級車が到着し、中からテレビで観たことのある顔が出てきた。
「ゾラだよ」
 ファブリツィオは僕の耳元で囁いた。ゾラは178センチの僕よりもずいぶんと小さかった。僕たちが近づくとにっこりと笑った。
「やぁ」
 僕たちの主旨を聞くと、「今、話をしよう」と頷いた。

 ジーコはゾラのフリーキックの巧さを褒めていた。また、身体が小さいのに当たりの激しいセリエAでプレーできるのはきちんとした足技を持っているからだと評価していた。
 ゾラもジーコには尊敬の念を持っていた。15分程度だったが、十分に内容のあるインタビューとなった。

 僕たちが心配していたのは、ストイチコフだった。
 彼は気むずかしいことで知られており、しばしば報道陣とトラブルを起こしていた。ブルガリア人であるので、イタリア語がそれほど流ちょうではない。この時、僕もスペイン語は勉強していたが、取材となると厳しかった。
 しかめ面をした彼が車から降りて、グラウンドに向かうところで、ファブリツィオが声を掛けると、足を止めた。

 ファブリツィオは、僕が日本から来たこと、ジーコの連載で彼についての話を聞きたいという主旨を伝えると、彼は顔を明るくした。
「ジーコが俺のことを語ってくれたのかい? それは嬉しいな。ただすぐに練習が始まってしまう。終わってから、話をするから待っていてくれ」
 にっこりと笑うと僕の手を握った。

 シーズン中ということで、パルマの練習は軽いものだった。
 僕はすんなりとゾラに話を聞けたこと、ストイチコフからも約束を取り付けたことでほっとした。
 ただ――。次の取材を考えると頭が痛くなってきた。
 ロベルト・バッジオである。
 
 バッジオが世界中からその名前を知られたのは、90年に、史上最高額の移籍金、150億リラでフィオレンティーナからユベントスに移籍したことだった。ユベントスでは、UEFAカップ優勝、バロンドールも獲得した。同じポジションのデル・ピエーロの存在もあり、95年シーズンにACミランへと移籍していた。
(写真:ロベルト・バッジオはこの時、イタリア中から注目を浴びる存在だった)

 ところが、ミランでは監督の方針から、出場機会が与えられなかった。再び移籍するのではないかと、イタリアのマスコミはバッジオのところに殺到していた。クラブに取材を申し込んだところ、試合会場で直接彼と話してくれという返事だった。

 僕たちが見に行く予定になっている試合の相手は、彼の古巣であるユベントス。ミランとユベントスという双方人気のあるクラブ同士の対戦で、それでなくとも報道陣は増える。そんな中で彼を捕まえるのは至難の業である。なんとか個別に時間をもらえないかと交渉したが、断られていた。

 バッジオは不思議な魅力のある選手である。
足元でのボールコントロールは柔らかく、繊細。パスの精度は高い。守備的であるイタリアのサッカーの中で、彼だけは別次元だった。ピッチの中では、彼の周りだけ別の雰囲気が漂っているような錯覚を起こすこともあった。

 まさに彼は、ジーコのお気に入りの選手だった。バッジオもまたジーコのことを深く尊敬していた。彼の才能の一つであるフリーキックは、ジーコの蹴り方を模倣していると言われていた。

 今回の出張で彼はどうしても話を聞かなければならない選手だった。しかし、見通しは暗かった――。

(続く)


田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。




◎バックナンバーはこちらから