温暖な瀬戸内の香川・観音寺市で生まれ育った中野は、幼少の頃から外で遊びまわるなど活発だった。 
「身体を動かすのは、子どもの頃から好きでした。3歳上の姉にくっついて近くの公園で遊んだり、ブロック塀を平均台代わりにして、上を走ったり(笑)」
 小学校の頃には持ち前の運動神経で、数々のスポーツ大会に借り出されたという。陸上の大会にも出場し、60メートル障害で香川県大会で上位に入るなどこの頃から能力の高さを発揮していた。
(写真:6月の日本選手権での跳躍。4メートルの高さを一度目にクリア)
 観音寺中学に入って本格的に陸上競技に取り組み、3年時には100メートル障害で全国大会優勝を果たす。
 観音寺一高に進学後も順調に力を伸ばし、3年のときには100メートル障害でインターハイ2位、国体優勝と全国トップレベルで活躍。13秒85のベスト記録もマークした。

“本職”100メートル障害の傍ら、中野が初めて棒高跳びに触れたのは、95年、高校2年の冬だった。
 香川県・観音寺は数々の日本チャンピオン、日本記録保持者を輩出するなど、伝統的に棒高跳が盛んな地域である。
 女子棒高跳びが五輪の正式種目になったのは2000年のシドニー大会から。当時はまだ国内の競技人口も少なかったが、日本の棒高跳び指導の第一人者である観音寺一高校(当時)の陸上部顧問・詫間茂教諭の薦めを受け、最初は「練習の一環として」棒高跳びに取り組み始めた。

 初めて跳んだ高さは、1メートル50センチ。この高さではバーがかかる場所はないため、両サイドに立てたポールにゴムを張って、挑戦した。
 この日のことを、中野はよく覚えている。
「棒を使わなくても、跳べるんじゃないかという高さでしたけど(笑)、先生が服を掴んで持ち上げて、無理やり跳ばせてくれた感じでしたね。それでも一本の棒に身をまかせてぶら下がるのは怖かった」
 だが、恐怖心と同時に、それまで味わったことのない「感覚」に刺激を受けた。
「自分の身体が『浮く』感覚は、初めてだったんです。それまで経験したことのない動きで、面白いな、と」

 当時、“本職”の記録も順調に伸びていた。100メートル障害で全国トップレベルにありながら、新たに棒高跳びに取り組むようになった中野に、周囲からは「なんでわざわざ棒高跳びを?」と不思議がる声も出ていたという。
 中野自身、怪我をしてもいけない、とためらう気持ちもあったが、それ以上に、棒高跳びの動きの新鮮さ、面白さに興味を持った。
「棒高跳びに転向しようというより、100メートル障害と並行してやっていこうというスタンスでした」
 そう中野は当時を振り返る。
 棒高跳びを始めてわずか2〜3ヵ月後の2月、地元で行われた室内の競技会で中野は、2メートル80を記録。その後、屋外の大会で3メートル超えを果たすなど、めきめきと記録を伸ばした。

 高校3年時の96年4月には、香川県内の大会でいきなり3メートル42、50、60と日本記録を更新すると、さらに5月の香川県選手権でも3メートル61、3メートル70と立て続けに日本新をマーク。棒高跳びを始めて半年足らずで、「日本記録保持者」となった。
「競技人口も少なかったですし、ハードルをやっていてちょっとスピードがあったので、跳べたんだと思います。詫間先生から言われるがままにやっているうちに、どんどん記録が伸びていって、面白くてしょうがなかった」
 面白いように記録が出る中、中野の心境にも変化が生じた。
「ハードルはずっとやってきて思うように身体が動くし、イメージも掴める。これまで自分の中で精一杯やってきた。でも棒高跳びは、まだまだ分からないことばかり。普段、経験することのない動作も多くて、新しい感覚に出会えることが多いのも刺激的だった」
 ハードルでは日本のトップにいけても、世界の舞台に立つのは難しい。でも棒高跳びだったら、世界にもいけるかもしれない――中野の気持ちは、徐々に棒高跳びへと傾いていった。

(続く)

中野真実(なかの・まみ)
1979年3月12日、香川県生まれ。今治造船所属。小学校の頃から陸上を始める。100メートル障害の選手として観音寺中3年時に全国大会で優勝。観音寺一高時代にもインターハイ準優勝、国体優勝と数々の実績を残した。棒高跳びを始めたのは観音寺一高2年の冬。高校3年時から東京学芸大1年時にかけ何度も日本記録を更新。04年5月にも4メートル31の当時の日本新記録を樹立。一昨年の日本選手権では9年ぶりとなる優勝を果たした。
※中野真実選手ブログ
※今治造船HP



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