「『日本新』という文字だけが出ている感じで、あまり実感がなかったですね」
 高校3年時から、日本新記録を幾度となく樹立した当時を、中野はこう振り返る。 
 東京学芸大1年時の97年にも、3メートル80の日本新記録を出し、日本人初の4メートル超えを期待されたが、その後、怪我の影響もあり、伸び悩んだ。
「1、2年生の頃は、体重が増えたり、怪我が多かったりと悪循環でした。ハードルのときから腰痛はあったんですけど、技術的にも不安定な部分がたくさんあったので、腰に負担がかかって怪我にもつながってしまった」
 調子が上向きになったのは、大学3年(99年)になってからだ。怪我が治り、順調に練習に取り組めるようになり、3メートル81の自己記録を更新した。
 翌年の2000年シドニー五輪では、女子棒高跳びが五輪の正式種目として採用されることになっていた。
 大学3年(99年)の冬、全日本合宿で、詫間教諭は中野に言った。「五輪を目指して、一冬かけて取り組まないか」。
 しかし、低迷期間を経て、やっと自己記録を更新したばかりの中野にとって、五輪は「夢の世界」であり、現実的な目標として捉えることができなかった。
「オリンピックを目指す、というところまで気持ちが追いつけなかった。当時は、五輪参加標準記録がいくつなのかも分かっていなかったです」
 当時、日本記録保持者だった小野真澄が五輪代表の有力と見られていたが、結局、標準Bの4メートル20に届かず、シドニー五輪には、日本から女子棒高跳び代表は出なかった。

 練習ができるようになったことで、調子を取り戻した中野は、4年生で4メートル超えを果たした。
 大学卒業後は、「陸上が好きだったし、やめる勇気もなくて」地元・香川で競技を続けることを決めた。
「詫間先生に『卒業後も続けたいんです』と言ったら、『ここ(母校・観音寺一高)でやればいいよ』と言ってくださったので、練習場所に悩むこともなく、続けることができました。すごく感謝しています」
 中野は香川に戻り、仁尾中や観音寺一高、香川丸亀養護学校の非常勤講師などを務めた。だが、競技に専念するという環境ではなかった。
「学校の仕事が終わって、部活で生徒の練習を見た後にマイペースで自分の練習をしたり……。養護学校の頃は、自宅から遠かったので、帰りに丸亀競技場によって練習したり。母校で練習ができるのは週末でしたね。十分、時間をとって練習できるわけではなかったので、まさか、アテネ五輪を目指すとは思っていなかったです」
 
 日本トップへの復活の手ごたえを感じたのは、2004年のシーズン序盤、室内の大会で4メートル15を跳んだときだ。
 そして同年の香川県選手権で五輪派遣標準B記録突破となる4メートル30の日本新記録を樹立すると、さらに5月5日、春季サーキットの水戸国際陸上で、4メートル31に成功した。実に、6年ぶりの日本新記録だった。 
 五輪イヤーに入り、中野は一躍、五輪の有力候補となった。

 チャンスに賭けたアテネ五輪選考会

 アテネ五輪の代表選考会を兼ねた日本選手権――。
 標準記録Bを切っているのは、中野と、中野の日本記録をさらに更新する4メートル35を跳んだ近藤高代(長谷川体育施設)。女子棒高跳びから1人は五輪に派遣されることが、選手たちにも伝えられていた。
 最高のコンディションで当日を迎えた中野は、4メートル20を1回目にクリア。一方の近藤は、1、2回目を失敗し、3回目に成功。
 続く高さは、4メートル30。中野は3回とも跳べずに終わり、近藤はクリア。五輪代表は近藤に決定し、中野は惜しくも代表入りはならなかった。
「技術的にもすごく安定していたし、身体のコンディションもよかった。(代表切符を)掴みかけていたのに、チャンスを生かせなかった。アテネ五輪はテレビで見ていましたけど、悔しかったですね。
 今思うのは、オリンピックに行くんだと思い続けていた気持ちが浅かったんじゃないかな、と。近藤さんはシドニーのときもも目指していたと思うけど、私は当時はオリンピックなんて夢の舞台だと思っていた。近藤さんとの、オリンピックへの思いの差だったのかなと思います」

 その後も、順調だった中野は、翌年のヘルシンキ世界選手権へと目標を切り替えた。
 しかし、世界選手権イヤーを迎えた4月、いつものように観音寺一高で練習していた中野は、アクシデントに見舞われる。
 跳躍後、マットに足から着地した際、バランスを崩したときだった。
 中野の耳に、「ボキッ」という鈍い音がはっきりと聞こえた。

(続く)

中野真実(なかの・まみ)
1979年3月12日、香川県生まれ。今治造船所属。小学校の頃から陸上を始める。100メートル障害の選手として観音寺中3年時に全国大会で優勝。観音寺一高時代にもインターハイ準優勝、国体優勝と数々の実績を残した。棒高跳びを始めたのは観音寺一高2年の冬。高校3年時から東京学芸大1年時にかけ何度も日本記録を更新。04年5月にも4メートル31の当時の日本新記録を樹立。一昨年の日本選手権では9年ぶりとなる優勝を果たした。
※中野真実選手ブログ

※今治造船HP



◎バックナンバーはこちらから