2005年4月、ヘルシンキ世界選手権イヤーのシーズンに入ったばかりの頃だった。練習中、中野は着地でバランスを崩し、足首の靭帯を切る怪我に見舞われた。
「ボキッと音が聞こえたので、折れたのかと思ったら、靭帯でしたね。あんな音がするんだなと・・・・・・。それで半年を棒に振ってしまいました」
 日本選手権に出場できず、世界選手権代表も叶わなかったが、手術、リハビリ期間を経て、半年後の8月に競技復帰を果たした。
 9年ぶりの優勝、2年連続の手術

 冬に再びトレーニングを積み、翌2006年のシーズン、2年ぶりに日本選手権に出場。最高のコンディションで当日を迎えた中野は、4メートル20をただ一人1回目にクリアすると、96、97年に連覇して以来、実に9年ぶりとなる優勝を決めた。
 記録との戦いとなった中野はバーを4メートル30にまで上げるが、これは3回ともクリアならず。
 3度目の跳躍では、上空で足がバーに当たり、膝をひねるような形でマットに落ちた。膝に痛みが走り、すぐに立ち上がることができずにいた。
 優勝インタビューには、車椅子の痛々しい姿で登場。その時点で脚の状態ははっきりとわからず、9年ぶりの優勝についての喜びを語っていた中野だが、さらなる試練はすでに起きていた。
 膝とつま先が不自然な向きを向いたまま着地したことで、前十字靭帯を損傷してしまったのだ。
 日本選手権後、病院で診察を受けた中野は、膝の手術のため、神奈川県・川崎市内の病院に1ヵ月間もの期間、入院することになった。
「試合の後は、まさか切れていると思わなかったのでびっくりしました。膝は足首以上にやっかいですし、2年連続の怪我はさすがに堪えましたね。子どもの頃から、身体は柔らかかったし、手術するほどの大きな怪我をしたことがなかったんです。それなのに、2年続けて手術をすることになって・・・・・・。調子が良いときって、怪我と紙一重だなと痛感しましたね。どこかに甘さがあったのかもしれないです」

 アテネ五輪を逃してから、中野は次の最大の目標を北京五輪と定めていた。だが、怪我が続いたことで「北京に向けた計画、道すじが浮かばなかった」と中野は振り返る。
「周囲の先生やドクターから『絶対に(北京五輪に)間に合うから、頑張ろう』と励まされながら、リハビリに取り組んでいました。怪我していたときは、世界選手権だとか五輪だとか、大きなことを思うと、現実とのギャップにやられてしまってしんどくなってしまう。その日その日のメニューをこなしていくだけでしたね。とにかく小さい目標を立てて、それを1つ1つこなしていくことで精一杯でした」
 入院生活の中で、中野の支えになったのは、同じ病院に入院していたほかの患者やスポーツ選手の存在だった。
「いろんな怪我の人が入院していたんですけど、私と同じ前十字の人もいれば、ひどい怪我の人も多かった。そういう人たちの姿を見て『私の怪我なんて、たいしたことないんちゃう?』という気にもなりましたね」
 手術後は歩くのもままならない状態だったが、言われたことをコツコツと取り組むうちに、確実に回復していることも実感した。
 つらかったはずの時期を、中野は「地道な練習は嫌いではないので(笑)」と振り返った。
「地元の病院で一人で入院していたら、耐えられなかったかもしれないですね。本当に、周りの人たちに励まされました」

 理想の跳躍を追い求めて

 2年連続の怪我は、中野の競技計画へ影響を与えざるを得なかった。
「アテネが終わってからの4年間で、したいと思っていたことやすべきだったことが、半分くらいしかできなかった。2年間で技術を修正して、昨年あたりはそれを確実にする計画だったんですけど、それがこの春先までズレこんでしまいましたね」

 北京五輪代表選考を兼ねた日本選手権、中野は絶好調で当日を迎えたが、チャンスを生かせず、またも五輪代表切符は手にできなかった。
 中野を指導する詫間教諭は言う。
「トップ選手の中ではスピードは一番。パワーもある。硬いポールも扱える女子選手はなかなかいませんからね。4メートル40〜50を跳ぶ力もありますよ。まだ力を出し切れていないですよ」
 当の中野にとっても、悔しさはひとしおだった。
「周りの方から『能力はある』と言っていただくんですけど、結果を出さないと意味がない。今年は『やっぱり跳べたね』と言われるような結果がどうしても出したかったので、日本選手権は本当に悔しかったです」

 最大の目標だった北京五輪代表を逃し、すぐに気持ちの整理はできなかった。だが、グラウンドに出て身体を動かしていくうちに、一つの結論に至った。
「自分はまだできる。棒高跳びが好きだし、また1センチでも上を目指していきたい」――。 

 日本選手権から20日後、母校・観音寺一高で、夏休みに入った高校生たちと汗を流していた中野は、久しぶりにポールを握った。
「20日ぶりでしたけど、思ったより身体が動きましたね。怪我をして身体のことも勉強しましたし、高校生たちの跳躍を見ていると、『こうすればいいのに』と感じることがたくさんあるんです。『こうやるんだよ』というのを私が見せなきゃ、と(笑)。それに今まだ自分の身体が動くのに、やめてしまうのはもったいないなと思いますね」

 幸いにも競技に打ち込める環境は整っている。
「(所属する)今治造船にお世話になって、母校で練習ができて、と最高の環境で競技に打ち込むことができる。棒高跳びはピットもポールも必要。どこでもできる、というわけではないので、こういう環境でできるというのは、本当に有難いことだなと思います」

 棒高跳び選手は、男子世界記録保持者のセルゲイ・ブブカに代表されるようにしばしば「鳥人」と形容される。実際、ポールの反発にうまく乗れたときは、空を飛んでいるような感覚にもなるのだという。
「フワッと身体が浮く感じ。良い跳躍ができたときは、動きがスローに感じるんです。技術的にイメージに近い動きができて、クリアできたときの感覚、体感は忘れられないです。楽しいですよ」
 棒高跳びを始めて12年――。「課題は踏み切り。技術面はほかのトップ選手に比べてまだまだ」とは中野の自己評価だが、裏を返せば、伸びしろが大きいということでもある。

「まだまだやれる、という手ごたえはあります。やっぱり、日本記録は跳びたいですね。ここから、再スタートという感じです。秋の試合に向けて、立て直していきたいと思います」
 今後の具体的な目標は、まだ決めていない。だが「1センチでも高く跳びたい」というシンプルな思いで、棒高跳びと向き合う日は続く。


(終わり)

中野真実(なかの・まみ)
1979年3月12日、香川県生まれ。今治造船所属。小学校の頃から陸上を始める。100メートル障害の選手として観音寺中3年時に全国大会で優勝。観音寺一高時代にもインターハイ準優勝、国体優勝と数々の実績を残した。棒高跳びを始めたのは観音寺一高2年の冬。高校3年時から東京学芸大1年時にかけ何度も日本記録を更新。04年5月にも4メートル31の当時の日本新記録を樹立。一昨年の日本選手権では9年ぶりとなる優勝を果たした。
※中野真実選手ブログ
※今治造船HP

(写真:高校時代から指導を受ける観音寺一高の詫間教諭(右)と)



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