「自分の力不足。(略)相手より自分の力がなかった」
「失敗したらどうしようって…。失敗するわけないんですけどね」
 このふたつの言葉は、わずか一カ月ほどの時をへだてて、同じ投手から発せられたコメントである。前者は朝日新聞8月23日付、後者は、日刊スポーツ9月26日付からの引用である。正確には、(略)の部分には「韓国は強い。」が入る。後者の言葉の前には「(巨人の戦況はマウンドに上がったとき)頭にある。」という前段がついている。
 そう、藤川球児(阪神)が北京オリンピックの準決勝で、自ら同点に追いつかれ、最終的には負けた韓国戦の試合後にもらしたコメントと、9月25日に通算100セーブを達成したときのコメントである。
 韓国戦については、こうも言っている。「あの四球が痛かった。自分の力が及ばなかった」(スポーツニッポン8月23日付)。そして、8、9回をぴしゃりと抑えて36セーブ目をあげた広島戦では、こうである。「1回よりも2回投げる方が、打者が何を待っているのか分かるようになっている。(略)視野が広がった」(日刊スポーツ9月30日付)。
 発言者の心的状況がまるで違うことは、容易に見てとれるでしょう。8月の発言には、失意、無力感がある。9月の発言には、自信、余裕があふれている。いわば、下から上をめざして及ばない言葉と、上から下を見下ろす言葉。

 なぜ、こんなにも変わるのだろうか。
 仮にいま、藤川が、メジャーリーグの阪神タイガースとも言うべき、ボストン・レッドソックスのクローザーだったとしよう。現在のクローザーであるジョナサン・パペルボンと比べて、そんなに見劣りするだろうか。
 パペルボンは確かに大きな体を利して、迫力満点のストレートを投げる。伸びもある。しかし、球速そのものは藤川とほぼ同等ではないだろうか。藤川でもパペルボンくらいのセーブは挙げられるのではないかと想像するのは、そんなに不当だとは思わない。でも、パペルボンだったらあの韓国戦、同じく四球は出しても、同点打は打たれずにリードを守ってマウンドを降りたような気がする。要するにギリギリの状況での勝負強さの問題だ。

 断っておくが、なにも藤川を批判しようというのではない。惨敗を喫した北京オリンピックで、日本の選手はみんな藤川のような精神状態に陥っていたのだろうと思うのである。その象徴的な例として取り上げてみた(村田修一の例は前回ふれた)。もちろん、そうさせてしまった星野仙一監督とコーチ陣の問題は大きいのだろう。

 ここで、いったん話題を変える。
 今年のペナントレースは、セ・パともに、「クライマックスシリーズ」というプレーオフ制度が、実にうまく作用したように見える。
 西武が独走したパ・リーグでは、オリックスがまさかの快進撃で、最下位から3位どころか2位にまでかけ上った。セ・リーグも、巨人・阪神の優勝争いだけでなく、中日と広島の3位争いも熾烈をきわめた。なんたって、10月に入った時点で、まだ1ゲーム差だったのだから。

 優勝争いもいいが、実は3位争いのほうが切迫感がある。1位も2位も、どうせプレーオフを戦うことには変わりがない。しかし、3位はプレーオフに出られても、4位は出られない。これは雲泥の差である。
 いちばん面白かったのは、広島カープの戦いである。本拠地・広島市民球場のラストイヤーという一種の極限状態とあいまって、3位になってはまた4位に後退する戦いには、手に汗握るものがあった。しかも、黒田博樹(ドジャース)、新井貴浩(阪神)という昨季までのエースと4番が抜けたチームである。

 たとえば、栗原健太の打席。序盤苦しみながら、4番の座を不動のものにした彼の成長には目を瞠るものがある。なによりも、打球のレベルが違う。凡打も含め、その力強さは今や別次元である。
 その栗原にして、打席には底知れぬ緊張感が漂う。ここで打たねばベンチへは帰れないんだとでも思いつめているような、いわば退路を断ったような、切羽詰った迫力があって、しかも結果を出してみせる。これが終盤のカープの試合を非常に魅力的なものにした。

 ところで、この追いこまれたような緊張感と同質のものを、最近、見なかっただろうか。そう、オリンピックの緊張感である。
 一緒にするな、と言われそうですね。もちろん一緒にする気はない。ただ、同質、相似形の緊張感だと言いたいのである。
 もう一言つけ加えれば、それは、阪神と巨人の選手が味わっている緊張感とは、少し違う質のものだろうということだ。藤川の言葉を借りれば、この2チームの選手は、「視野の広がった」感じの、充実した緊張感の中にいるのではないか。だが、カープの選手には一切の余裕がない。負けたら、本来自分たちのチームが抱えている「戦力不足」という現実を認めて、北京オリンピックでの藤川のごとく、「力不足」とうめくほかない。

 クライマックスシリーズ進出に関して、ここまでの決意を露わにしたチームは他にないのではあるまいか。中日、北海道日本ハム、千葉ロッテ、もちろんそれぞれにチャンスがある限り必死である。それは、悲愴な決意というよりも、お、これはひょっとしたらうまくいくぞという、ややいたずら心も含まれるような、プロフェッショナルらしい決意ではないか。

 実は、それで当然なのだと思う。ペナントレースは1位を争うものであり、日本シリーズは1位同士が当たるのが自然である。6球団中3位のチームでも、日本一になる可能性があるシステムは、そもそもおかしいのである。
 3位争いの緊張感というのは、いわば、きわめて人為的につくりあげられたものでしかない。それは、実際に戦っている選手たちは十分に感じ取っていることだろう。

 10月1日、日本ハムが勝ち、ロッテが敗れて、日本ハムの3位が決まった。「3位が日本シリーズに行った前例はない。歴史を覆したい」というのが稲葉篤紀、そして、「選手はあきらめずに全力で戦った。誇りに思う」がバレンタイン監督のコメントである。
 いずれの発言も「負けたら、また来年、挑めばいい」という、プロフェッショナルな信念に裏打ちされていることがわかるだろう。それは、中日も同様のはずである。

 つまり、現行のクライマックスシリーズがきわめて人工的に作り出した緊張感とは、そういう質のものなのだ。ただ、広島カープだけが事情が違っていた。
 なぜなら、他球団と違って「負けたら、また来年、挑戦すればいい」ということが不可能なのである。つまりカープにとって今年のクライマックスシリーズは、純粋に一回性の事柄だったのである。それが最後の市民球場のシーズンということであり、「最後の市民球場で最後の日本シリーズを実現したい」という願いであった。広島のプレッシャーは、だからオリンピックと同質であり、他球団はペナントレースと同質だったというゆえんである。

 ただし、広島のほうが特殊事情であって、他球団の方が通常である。
 ここに、現行制度の問題がある。プレーオフ制度で盛り上げたいのならば、各球団が、今年のカープが背負ったような、一回性の緊張感、切迫感をもてるシステムに変えるべきだろう。あの藤川球児が、北京オリンピックの韓国戦で背負ったプレッシャーを、日本のペナントレース、プレーオフでも感じるような、そういうシステムにするべきである。そうしない限り、いつまでたっても、日本代表の国際大会での勝負弱さは解消されない。
 少なくとも、3位のチームまで日本一になる可能性のあるプレーオフ制度は、やめるべきだ。なぜなら、そのしくみこそが、ペナントレースからも、クライマックスシリーズからも、「一回性の緊張感」を奪ってしまうのだから。

 10月に入って、その「一回性のプレッシャー」に押しつぶされた広島カープについても付言しておきたい(原稿執筆時点で、広島は残り試合全勝しても、中日が残り5戦で2勝すれば3位決定。常識的には、中日の可能性がきわめて高い)。
 最後は、一言で言えば不運だった。市民球場のラストゲームで超満員で盛り上がった9月27、28日。カープは快勝し、ファンも選手も市民球場のラスト・セレモニーに酔った。一方、中日は大苦戦を強いられていた。ところが、27日は横浜・山口俊のサヨナラ押し出しで勝ちがころがりこみ、28日は巨人・上原浩治が今季一番の好投を展開するも、0−0から8回裏に荒木雅博に決勝ソロを浴びて1−0。薄氷を踏む連勝である。その時点で、両チームは67勝65敗5分けで全くの同率。双方残り7試合で直接対決はなし。直接対決の勝率のいいほうが進出というルールにより、中日にマジック7がついた。翌日、カープは阪神戦。中日は休み。前日のセレモニーの余韻、ローテーション通りなら先発は、前回、プレッシャーに負けたとした思えないふがいない投球に終始した大竹寛。どう考えても、負けパターンである。ここでブラウン監督は、大竹をローテーションから外して青木高広先発という大勝負に出た。

 きっとこの采配は、広島OB評論家を中心に、きわめて評判が悪いだろう。なぜなら、結果はそれ以来、緊張の糸が切れたかのような3連敗だったから(しかもその連敗を止めたのは、10月2日、ヤクルト戦の大竹だった)。ただ、それまでの大竹の登板内容を考えると、いずれにせよ、29日の阪神戦はなす術なく負けただろうと推測せざるを得ない。結果論に意味はない。そのわりには、終盤まで3−3と、よく粘った。青木というギャンブルも、一回性の緊張を打ち破るカードとして、ありうる選択肢だったと思う。ただ、結果はついてこなかった。

 思えば、この27、28日の連戦の時点で、カープの勝ち星があと1つだけ多ければ、たとえ中日が連勝しても、こうはならなかった(同率だと中日が勝つ限り可能性がなくなるが、1勝多ければ、カープが勝てば中日の勝敗に関係なくクライマックスシリーズに進出できる。たとえ29日の阪神に負けても、まだまだなんとかなる)。あと1勝だけ、ブラウン監督は足りなかった。このような巡り合わせを、私は「ブラウンの悲劇」と呼んでいるのだが、それについては、次の機会に詳述したい。ただ、つけ加えるならば、「ブラウン改革」のおかげで、黒田、新井抜きのカープがAクラスを狙えるほど強いチームになったのは確かである。

 話を戻そう。二種類の緊張感について論じてきた。プレーオフ制度そのものはいいとしても、現行制度は、選手に一回性の緊張感をもたらさない。ひいては、それは、日本代表の国際試合での勝負弱さの問題にもつながる。
 ところで、実は多くのファンの方々も、3位まで進出できるプレーオフ制度でいいとは思っていないのではあるまいか。
 ファンや選手、監督の実感と、経営者たちの政治が、大きく乖離しているのではないか。だからといって、この制度を改めようという大きな運動が起きるわけでもない。いわば、自分たちの体感と違うところで政治が行われている、なにかかけ離れているような感覚なのではありませんか。

 同じことは、広島市民球場問題でも起きた。ほとんどの市民が、本音では現在地での建て替えを望んでいた。しかし、政治は、その身体感覚とはかけ離れたところで進行し、多くの市民の生活実感からやや離れた場所に新球場が建設されている(この、いわば市民球場のまつろわぬ霊が、今年の広島の盛り上がりを生んだのだろう)。
 世は、解散だ、総選挙だ、自民党だ民主党だと、かまびすしい。アソウなんだかオザワなんだか、私に格段の考えはありません。しかし、クライマックスシリーズや市民球場と同じように、生きている実感とかけ離れたところで、政治が浮遊しているとは言えそうだ。

 この際、せめて「カープうどん」くらい、新球場でも残しませんか。いやいや、市民球場名物のうどんも「存続するかどうかは微妙」(日刊スポーツ、9月29日付)なんだそうで。それは、「新球場は指定管理者制度が採用され、球場の管理と運営が広島市ではなく球団に移る」(同)かららしい。あのうどんは、市民にとって、野球観戦という経験の一部として記憶されるものだった。これは、そういう人々の身体にしみついた生活実感とは離れたところで政治が成立していることの、見やすい例ではないだろうか。

 文化とは、本来「身近」なところから発するものでしょう。「身近」な感覚を統合するものを、仮に「政治」と呼ぶならば、すくなくとも、クライマックスシリーズの仕組みに関して、あるいは、日本代表監督を選ぶような場面において、すなわち、日本野球の経営において、「政治」が「身近」な感覚とつながっているとは、とうてい思えない。
 そこが変わらない限り、北京の悲劇はまた起きるのではないだろうか。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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