リーグ優勝をかけて対戦した富山サンダーバーズとの戦いに敗れ、群馬ダイヤモンドペガサスの1年目が終わりました。2月のキャンプから始まって、オープン戦、シーズン開幕……と一日一日が非常に長く感じていました。しかし、今改めて振り返ってみると、あっという間だったような気がしています。
 開幕前、私は年間プランニングを立てました。大きく分けて言うと、前期は個人の能力をどう伸ばすかを焦点に当てた「育成」を、後期はある程度レギュラーを固定させ、勝利という「結果」にこだわるというものでした。

 育成に力を注いだ前期は健闘したものの、新潟アルビレックスBCとの優勝争いに敗れてしまいました。そこで後期は、熱心に応援してくれている地元ファンのためにも、球団を支えてくれているスポンサーのためにも何がなんでも優勝しなければならないと考えていました。そのためには信濃グランセローズにはもちろん、前期に惜しくも負け越した新潟に勝たなければなりません。ただ、自信はありました。なぜなら、育成重視だった前期も4勝5敗とほぼ互角の戦いができていたからです。実際、後期は新潟に6勝1敗2分という成績を残すことができました。このことが優勝できた要因の一つであったことは言うまでもありません。

 その新潟との地区チャンピオンシップでは2連勝し、次のステージに進むことができました。投打ともに選手が皆、やるべきことをやった結果、2試合ともに完封勝ちを収めることができました。後期のいい流れをそのまま出せた2試合だったと思います。

 しかし、リーグチャンピオンシップでは富山サンダーバーズに1勝もできずに3連敗を喫してしまいました。今季の富山は投打のバランスがとれていて、安定感のあるチームでした。その富山に優勝した後期も唯一、2勝3敗1分と負け越していたのです。

 富山に勝つには、とにかくエースの小山内大和(土岐北高−金沢総合科学専門学校−宮城建設−愛媛マンダリンパイレーツ)を攻略しなければなりません。なにせ4試合連続完封の記録を樹立した好投手ですから、当然大量失点は望むことはできません。ですから、打線はバントやエンドランなどでプレッシャーを与え、数少ないチャンスをモノにし、投手は相手に先取点を与えず最少失点に抑えることが必要だったのです。
 ところが、第1戦は守備のミスで相手に点を与え、攻撃では大事な場面でバントや盗塁を失敗してチャンスをつぶしてしまいました。翌日の第2戦も立て直すことができず、同じように自分たちのミスで連敗を喫したのです。

 それでも第3戦は序盤に先取点を奪い、投手陣も8回まで無失点に抑えるという試合展開で、ようやく自分たちのゲームをすることができました。9回表を終了した時点で3−0。9回裏も越川昌和(多古高−上武大−サウザンリーフ市原)が2人のランナーを出しながらも2死までこぎつけていました。
 勝利まであと1死――。迎えたバッターは6番・草島諭でした。越川は草島にフルカウントまで粘られ、次の一球が勝負となりました。この場面、私の頭では「フォークで三振」でした。しかし、バッテリーが選択したのはストレート。これが甘い所に入り、草島に3ランを打たれてしまったのです。この一発で流れは一気に富山へと傾きました。結局、延長戦の末に逆転サヨナラ負け。勝てる試合だっただけに、非常に悔しい敗戦となりました。

 しかし、越川を責めるわけにはいきません。私も草島を迎える場面で一呼吸置いてもよかったのです。直接マウンドに行き、「ホームランでも同点どまりだから大丈夫」あるいは「無理せず、次のバッターで勝負してもいい」などとアドバイスを送れば、越川も気持ちを楽にして投げられたのではないかと思うのです。

 フルカウントの場面で欲しいのは、ストライクからボールになるボールですが、現段階ではそのレベルにまで達していないというのが正直なところです。今の彼らにとって重要なことはストライクゾーンで勝負し、どれだけ自分たちの力が通じるかということです。
 逆に勝負を避けて四球を与えていては成長はありませんから、シーズンを通して四球に対しては厳しく言ってきました。ですから、第3戦もホームランを打たれたことよりも、その前に四球でランナーを出したことの方がずっと悔やまれるのです。

 結局、目標であったリーグ優勝はできませんでしたが、選手は皆、予想をはるかに上回る成長を見せてくれましたし、よく頑張ってきたと思います。試合後、私はそのことを選手に伝えました。残念なことに、これからチームを去らなければならない選手も出てきます。しかし、1年間共に汗を流した仲間であることは今後も変わりはありません。たとえチームを離れても、お互いに何かあった時には助け合える仲でいてもらいたい。私はそう願っています。

秦真司(はた・しんじ)プロフィール>
1962年7月29日、徳島県出身。鳴門高校3年時には春夏連続で甲子園に出場。法政大学時代の84年、ロサンゼルスオリンピックに野球日本代表として出場し、公開競技ながら金メダル獲得に貢献した。翌年ドラフト2位でヤクルトに入団し、4年目には正捕手として122試合に出場した。その後、外野手に転向し、90年代のヤクルト黄金時代を築き上げる。99年に日本ハム、2000年に千葉ロッテへ移籍し、その年限りで現役を引退した。その後はロッテの打撃コーチや中日の捕手コーチ、解説者として活躍。今季より群馬ダイヤモンドペガサスの初代監督に就任した。

★携帯サイト「二宮清純.com」では、「ニッポン独立リーグ紀行」と題して四国・九州アイランドリーグ、BCリーグの監督、コーチ、選手が毎週火曜日に交代で登場し、それぞれの今をレポートします。
 今回は群馬・秦真司監督のコラム「ないないづくしだった青木の成長」です。ぜひ携帯サイトもあわせてお楽しみください。
◎バックナンバーはこちらから