しばしば僕は『週刊ポスト』という週刊誌の不定期連載で、下田昌克という同じ年の絵描きと世界各地に取材に出かけている。情熱大陸などにも出演したことがある下田は、色鉛筆を使って人の顔を描くことを得意にしている。
 彼を見ていると時々、嫉妬を感じることがある。

(写真:ブラジル、リオのカーニバルにて。絵を描いた後の下田)
 僕は、スペイン語やポルトガル語、英語の他、フランス語とイタリア語も少し話すことができる。下田は、インド訛りの英語が話せるが、他の言語は全く話せない。ブラジルやキューバでは、絵のモデルになってもらうために僕が話しかけることもあった。
 彼がスケッチブックを開いて、色鉛筆で描き始めると−−絵ができあがっていくうちに、人の表情が変わっていく。自分のことを理解してもらったと思うのだろうか、絵が完成する時には、言葉を話せない下田と仲良くなっていることも少なくない。絵は、言葉を借りずして、人とコミュニケーションをとることができる。
 同じようなことが、元爆風スランプのリーダーだったドラマーで友人のファンキー末吉氏と中国に行った時にもあった。彼は中国での生活が長く、中国語が堪能である。当時から中国で最も名前を知られているミュージシャンの一人だった。たとえ、彼のことを知らなかったとしても、ドラムを叩くと周囲の空気が一変する。彼はドラムが巧いが、技術を見せつけるような事はしない。ただ、彼のドラムを聞くと人は自然と身体が動くのだ。

 一方、物書きは、自分のやってきたことを異国で説明することが難しい。言語が唯一の武器であるため、なかなか国境を越えることができない。
 ただ−−。
 絵や音楽と並んで、言葉を必要としないコミュニケーション手段がある。それがスポーツである。
 特にサッカーは世界言語である。野球と違って、サッカーはボール一つあればできる。そして、サッカーという競技が存在しない国はほとんどない。僕は、スポーツの取材以外でも、サッカーというスポーツにどれだけ助けられてきただろう。

 最初に思い出すのは、1996年に「ペルー大使公邸事件」でリマに行った時のことだ。
 95年の年末に事件が起こり、週刊誌の特派員として僕が現地に入ったのは、事件発生から1カ月たってからだった。
 すでに、日本語の通訳はほとんど他のメディアに押さえられていた。その時、僕のスペイン語は、NHKラジオ講座を一年程度聞いたぐらいで、日常会話が多少できる程度だった。
 カメラマンもつけず、たった一人で現地に入り、知り合いのつてで日本語を教えている日系人の婦人に手伝ってもらうことになった。彼女は七十歳を越えており、ハードに動くことはできなかったが、経験と人脈があった。
(写真:ペルーの大使公邸事件の取材のため、リマには延べ6週間滞在した)

 彼女の紹介で会った一人が、大統領府に近いリマの中心地でレストランを経営している日系人のペドロだった。彼のレストランは、近くに「エルコメルシオ」というペルーで一番大きな新聞社があり、新聞記者が沢山出入りしていた。彼らが、結果的に僕たちの取材を大きく助けてくれた。
 彼らと仲良くなったのは、僕が週に一回、大統領府の近くにある、屋上にネットを張っただけのフットサル場で一緒にボールを蹴るようになったからだ。壁も使うため、正確にはフットサルよりも、ブラジルで言うところのソサエチである。経済部のある記者は、元3部のクラブでプレーしていたというだけあって、ボールさばきが上手かった。
 彼らとの付き合いはその後も続き、数年後、ペルーを訪れた時に、新聞社のチームの一員として大会に出たこともあった。ブラジルでは皆が攻撃的なポジションをやりたがるが、ペルーでは中盤や守備的なポジションをやりたがる傾向があることを知った。
 ブラジルでは、かつて田中マルクス闘莉王が練習していたことでも知られる、ミラソルというサンパウロ州の田舎町にあるクラブで、トップチームの前座試合に、ジュニアユースチームに混ぜてもらい出場したこともある。パラグアイでも、当時パラグアイ2部リーグのクラブに所属していた元ジェフ市原の菅野拓真たちと大会に出た。

 欧州で僕が多くの友人を作ることになったのも、サッカーがきっかけだった。フランスでの彼らとの出会いは僕に大きな影響を与えた。
 2003年11月のことだった。
 当時僕は、ジェフ市原からパラグアイのセロ・ポルテーニョにレンタル移籍し、その後、ブラジル、ポルトガルでプレーした広山望の単行本を書き下ろしたばかりだった。できあがった本を持って、僕はモンペリエの彼のところを訪ねていたのだ。
 モンペリエでは、マニュエル・ソロという男が広山の面倒を見ていた。マニュエルの一家は元々はスペインのバルセロナに住んでいたカタルーニャ人である。マニュエルの父親は、スペイン内戦を避けて、フランスに移住してきていた。フランス南部には、そうしたカタルーニャ人が多くいた。彼らは家庭ではスペイン語を使っていた。パラグアイでプレーしていた広山はスペイン語が堪能だった。フランス語は習得に時間のかかる言語である。広山はスペイン語でマニュエルのきょうだいと会話し、日常生活を手助けしてもらっていたのだ。
(写真:きっかけは広山望だった)

 僕もまたマニュエルとスペイン語で会話していた。マニュエルは、かつて広山がプレーしていたモンペリエの選手だった。
 彼はカタルーニャ人として容易に想像できることだが、バルセロナの熱狂的なサポーターであり、ディエゴ・アルマンド・マラドーナを愛していた。背が低く、少し太ったマニュエルは、背格好もマラドーナに似ていた。
「だから俺はいつも背番号10番なんだ。今度、一緒にプレーしよう」
 毎週月曜日に近郊の都市のクラブとリーグ戦を行っているという。
 国外出張の時、僕はサッカーができるように人工芝用の小さなスタッドのついたシューズをいつもスーツケースの中に入れている。ある夜、スーツケースからシューズを取り出して、マニュエルと一緒に出かけることにした。
「うちのクラブは年をとった選手が多いけれど、元々パリ・サンジェルマンでプレーしていた男もいる。フランス代表だった選手が来ることもあるんだ」
マニュエルは誇らしげに言った。

(Vol.2へ続く)


田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。




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