ただ見入るのみ――そんな87球だった。
 日本シリーズ第2戦、北海道日本ハム先発ダルビッシュ有の投球である。
 左腰、左臀部痛を伝えられ、この日はなんと42日ぶりという強行登板。5〜6分の力なんてものではない。3分くらいの力である。
 試合後、自ら明かしているが、ステップする歩幅も短くし、「腰を使わずに手だけで投げた」。
 それはもう、見た目にも明らかであった。まず、左足を上げたとき、上体がやや後ろに倒れる。こんなこと、普通の状態ではありえない。そしてそっとステップすると、あとは手だけでポイッと投げる。
 つまり、そういう投げ方しかできないほどの状態だということだ。
 それでも、あの巨人打線を6回7安打、亀井義行の2ランによる2失点にとどめて、日本ハムに今シリーズ初勝利をもたらした。梨田昌孝監督ではないが、すごいとしかいいようがない。
 ただし、やはりこれは一種の“禁断の投球”であったと思う。
 その前に、なぜ、3分の力で巨人打線を抑えられたかを考えておこう。

 この日、有効だったのは大きなスローカーブとスライダーである。
 誰もがハイライトシーンとして挙げる5回表を振り返る。この回、2死から古城茂幸、坂本勇人、松本哲也と3連打を食らって満塁のピンチ。迎える打者は小笠原道大である。
 実はこの試合、この場面の1球目と2球目だけ、力を入れてストレートを投げた。いずれも148キロ。それ以外はストレートでも、130キロから140キロどまりだった。つまり、ストレートはまともに投げられない状態だったのである。で、この2球がストライク、ボールときてカウント1−1。
 3球目、スローカーブ 見逃し ストライク
 4球目 スライダー 空振り三振!
 問題は、あの小笠原がなぜ、4球目の内角低目のスライダーを空振りしたかである。平常時と比べれば、球速もないし、鋭くもない。ただ、打者の手前まで(遅いながらも)まっすぐ進んで、急速に、そして平常時よりも大きくタテに落ちた。いつもとの曲がり方の違いに、小笠原もついていけなかったのだ。

 では、ステップする歩幅も短くし、ヒョイと投げた“病み上がり”の(まだ上がってないかもしれない)スライダーが、なぜそんなに変化するのか。
 これはボールを放す位置がものすごく前、すなわち打者寄りだからである。つまり、いくら歩幅を挟めても、単なる手投げでも、彼がこれまで身につけてきた、できる限り打者に近い、前のポイントでボールを放すという技術は失われていなかったのだ。前で放す分、ボールは打者の手元まで真っすぐ進んで急激に落ちたのである。
 あの日、ダルビッシュにそれが可能だったのは、体はまだ万全の状態の時の動きを覚えていたからである。いわば、筋肉の記憶が発動されたといおうか。ただし、これが“禁断”になりかねないのは、もし、この投球を繰り返すと、筋肉がこの“故障バージョン”の動きを覚えてしまいかねないからだ。

 肩を痛めた大エースが痛いのを我慢して小手先で投げても抑えられることがある。しかし、その後、治療に専念して翌シーズンに投げようとすると、もはやフォームが元に戻らないことがある。例えば広島カープの初優勝の時の大エース外木場義郎の日本シリーズとその後のケースを念頭に置いて言っているのだが、ダルビッシュにそのような事態が起きないことを、切に祈る。
 半分無意識のうちに、そのような心配をしながら見ていた。ともかく彼自身が“一世一代の投球”と評しただけのことはある、長く記憶にとどめるべき登板だった。
 例えば、グラブを持った左手の動きだけ見てもいい。下半身はかばっていて使えないが、左手はきれいに打者方向に伸びるのである。これで、前で放すという、この日最大のアドバンテージを維持し続けられたのだと思う。

 と、日本の大エースの姿に思い入れを注ぎ込んだあとは、メジャーに目を移そう。
 今年のワールドシリーズはニューヨーク・ヤンキース対フィラデルフィア・フィリーズであった。松井秀喜がMVPを獲得するという、実にめでたい結末だった。松井の快挙はいくら賞賛しても足りないくらいだが、勝敗とは別に注目したい点があった。両球団にメジャーを代表する左投手が4人いたのである。ヤンキースは、CC.サバシアとアンディ・ペティット。フィリーズはクリフ・リーとコール・ハメルズ。
 4人には4通りの、メジャーで超一流であり続けるための武器があるのだが、近年、最も華々しい成績を挙げているのは、最多勝やサイ・ヤング賞も獲ったクリフ・リーだろう。事実、第1戦と第5戦に先発して、フィリーズに2勝をもたらしている。
 まさに全盛期を迎えたリーだが、意外にも例えばランディ・ジョンソンのような剛速球投手ではない。
 ストレートは145〜150キロくらい。スライダーとチェンジアップ。球種の上では典型的なメジャースタイルの投手である。
 例えば、ハメルズやサバシアはストレートが152〜155キロくらいは出る。ペティットはかなり衰えてきて142〜143キロが中心。この人はスライダーのコントロールが命だ。

 何が言いたいかというと、現在、メジャーNo.1左腕と言っていいリーは、西武ライオンズがドラフト1位指名した菊池雄星(花巻東)の参考になるのではないか、ということだ。
 菊池投手は、日本球界入りを決断したけれども、メジャーへの志向は持ち続けているだろう。ぜひ、右のダルビッシュ、左の菊池といわれるくらいの、日本を代表するエースに育ってほしい。
 リーの生命線は、右打者で言えばインローへのストレートのコントロール。そして、外角に沈むチェンジアップのキレである。そして、おそらくはこのキレを生かすために、意識的に高めのストレートを多用する。
 素晴しいのは、160キロ近い剛速球ではないのに、高めのストレートがほとんどファウルになることだ。つまり、140キロ後半のストレートでも、伸びがある。だから、かのA・ロッドでさえファウルする。

 菊池投手の特徴として、左腕がややスリークオーター気味の低い位置から出てくる点が挙げられる。これは彼の特徴なのでそのまま生かせばいい。
 その点、ハメルズはもっと真上から角度をつけて投げるので参考にならない。リーとサバシアはやや低くスリークオーター気味だ。その腕の振りから、サバシアなら右打者のインローにストレート、スライダー、アウトコースにスライダー。リーならば、同じくインコースにストレート、スライダー、アウトコースにチェンジアップ。これが、いずれも絶対の武器になる。投球パターンとしては、おそらくこれでいいのだろう。
 いくら菊池投手が才能にあふれているといっても、ストレートが常時155キロを超すような投手になるのは難しいだろう。そんなことをすると、投手寿命が短くなってしまう。そこでリーである。147〜8キロでも、絶対のコントロールとキレがあれば、メジャーで20勝できるのだ。もちろん、リーのチェンジアップに相当するような絶対の変化球を身につけることが条件だが。
 逆に言えば、そうすれば、菊池もメジャーで20勝する可能性が生まれるということだ。
 3分の力で投げるダルビッシュに、この人の投球の奥の深さを知り、リーの投球に、日本人投手でもメジャーで20勝を突破できる可能性を見る。

 日本シリーズもワールドシリーズも、やはり見る快楽にあふれている。たとえば、第3戦の9回表、中田翔がクルーンから三振にとられたシーンもよかった。最後はインハイのストレートに空振り三振だったが、その前のフォーク、カットボールにしっかりついていって、強いスイングをしていた。あれなら、彼は来年爆発できる。あるいは巨人の松本哲也。俊足の小兵だが、彼は当てて走るのではない。ボールをとらえて強く振るから、意外なほど打球に力がある。これも見栄えがする。
 そして、ダルビッシュやリーの姿の向こうに、3年後の菊池雄星を幻視してみる。これもまた、野球の快楽ではないだろうか。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
◎バックナンバーはこちらから