西村徳文新監督を迎えた千葉ロッテは、今年は走るのだそうだ。
 例えば2月23日の対ヤクルト練習試合。初回1死2塁、打者4番・金泰均の場面。2塁走者・早坂圭介がなんと3盗を敢行。まんまと成功して、1死3塁のケースをつくり出した。繰り返すが、打席に立っていたのは4番打者である。
 西村監督はこう言っている。
「盗塁はいつ走ってもいいグリーンライト。4番の場面でもすきあらばどんどん行かせる」(「スポーツニッポン」2月24日付)
「グリーンライト」というサインは、確かトレイ・ヒルマン監督が北海道日本ハム監督時代に使って注目を浴びた。要するに、走者の判断で行けると思ったら、いつ盗塁してもいい、信号は常に青ですよ、ということだろう。
 初回、1死、打者が4番という状況を考えれば、普通はストップでしょうね。それをあえて行かせるというのが、西村新監督の意識改革のあらわれ、ということなのだろう。
 あるいは、野村謙二郎監督の広島カープ。2月20日の対巨人練習試合で、初回、1番・東出輝裕が出ると2番・梵英心にエンドラン。これが的中して1、3塁。3番・天谷宗一郎の2球目に今度は梵が2盗成功。あっという間に無死2、3塁。天谷はきっちりセンター前タイムリーを打って、2点先制。まあ、絵に描いたような速攻、そして足技である。
 野村監督は「カープ本来の野球」「足を使った野球」を盛んに訴えている。これもまた、新監督の目指す意識改革の発露と見てよいだろう。

 新監督だけではない。
 東京ヤクルトも走るのだそうだ。3月1日の対韓国LG練習試合では、初回1死2塁で、青木宣親は浅いセンターフライ。それでも2塁走者・田中浩康はタッチアップして3塁へ(アウト)。
 それでも田中は「3塁へ行きたかった」とコメントし、チーム全体に「常に次の塁を狙う」意識を浸透させているのだという。
 多くの球団は、巨人のような巨大戦力を備えているわけではない。限られた戦力で巨大戦力に立ち向かうには、確かに機動力は大きな武器になる。
 ただ、キャンプ、オープン戦の段階での、「足を使った野球」という意識改革には、どこか既視感がある。毎年、必ずどこかの監督が標榜してきた。そして、実際に走ってアウトになってみないとわからない、とかで、2月末から3月中旬まで、冒険的な走塁をするチームは数多い。ただ、印象をいえば、それがシーズンを通じて発揮されることは、意外に少ないのではあるまいか。

 それよりも、面白い論点がある。
 ロッテのケースだが、昨年までのバレンタイン監督は、基本的には盗塁のサインをベンチから出した。つまり、ストップウォッチで測ったりして、データの裏づけのある時だけ走らせたのである。
 これは、おそらく広島のケースにもあてはまる。
 昨年までのブラウン監督は、試合中、決してストップウオッチを手放さなかった。そして、おそらくデータ上、成功する時にだけ盗塁のサインを出したのである。
 これについて、当時は解説者だった野村謙二郎(現監督)が、テレビでこう話したことがある。
「ブラウン監督のやろうとしているジス・ボール・スチール(this ball sceel)というのは難しいと思います。盗塁というのものはある程度は、いけるときにはいっていいよ、と言ってあげないと」
 自身3度も盗塁王に輝いた実績のある人の言葉だから、説得力はある。つまり、この投球で走れ、とサインを出されても成功率は低いという主張である。

 ここには、日米の野球観の違いが露呈しているようだ。
 つまり、バレンタイン監督もブラウン監督も、アメリカ人としては盗塁など、機動力を使った攻めを好む方である。しかし、それが鮮やかに決まったシーンというのは、記憶では、エンドランの方が多い。相対的には、単独スチールのケースは少ないのではないか。事実、昨季のロッテの盗塁企図数は114。111のオリックスに次ぐリーグ5位である。
 ブラウン監督も、野村新監督同様、「走る野球」を掲げながら、意外に走ると見せかけて走らせなかったりするシーンが目立った。そして、最終的にエンドランになるとか……。
 データなるものが野球に落とす影の一端を見るような気がする。

 いずれにせよ、野球において、機動力を使う攻撃、スキのない走塁というのは、いわば当然のことではないだろうか。春先にことさら強調することのほうが、不自然ではないか。
 例えば中日。落合博満監督がことさら走る野球を強調したというのは、寡聞にして知らない。今年のキャンプの話題は120キロの巨漢、ブーちゃんこと中田亮二である。しかし、1番に座る荒木雅博は、当然ながら今年も盗塁王を争うくらい走ってくるだろう。特に強調しなくても当然できているのが、プロらしいチームなのではないか。
 何か、発想が貧しいと思うのだ。貧しいという言い方が失礼ならば、種類が少ない。多様でないといってもいい。つまり、巨人のような巨大戦力に立ち向かうのに、日本野球が有する武器に、機動力しかないのだろうか。もっと様々な戦略、発想を駆使すべきではないか。

 人類学者・菅原和孝さん(京都大学教授)が「京都大学新聞」(2009年12月16日号)にすてきな文章を寄せておられた。
 私たちの生が「ハリウッド化」している。すなわちパターン化していると喝破し、例えば<恋愛>は西欧の<ロマンティック・ラブ>の輸入にすぎないのに、「明治維新」以来、日本人を呪縛していきた、とされる。そして、昨今の<婚活>や<セクハラ>というスキーマ(図式)に、性愛の見地から人類学的に批判を試みていて、実に興味深い。こう書かれている。
<ある社会に生まれ落ち、文化を内面化して生きる以上、私たちの生の形がある程度パターン化することは避けられない。認知人類学では(略)こうしたパターンを生成させる心的な機制を文化はスキーマ(図式)と呼ぶ。(略)だが、スキーマへの過度の従属(または無自覚)は、生の感覚を鈍らせ、貧しくする>
「走る野球」ということ、機動力野球ということは、私には、キャンプ、オープン戦におけるスキーマに堕していると思える。まさに、「過度の従属」が「生の感覚を鈍らせ」はしないか。

 WBCに勝った時も、日本の機動力野球は称賛された。しかし、思い出してみてほしい。韓国打線の方が迫力がありませんでしたか。
 荒木と井端弘和の二遊間を、とりかえたっていいじゃないか。なんだか口をつぐんでしまって無愛想なのは困ったものだが、それでも落合監督には、スキーマに従属しない何かがあるように思える。例えば、そのような発想が、日本野球が貧しくなることを防ぎ、発展させるのではないだろうか。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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