前回紹介した山本化学工業製の水着新素材「BRS−TX」は、「親水」で水との抵抗を軽減する新しい技術で高い評価を得ている。「泳ぎやすさを比較すれば過去最高レベル」とイタリアアリーナ、ダイアナ、マテュースなど多くの水着メーカーが、この新素材を採用した。国際水泳連盟(FINA)が水着の素材や形状に関する制限を行って以降、競泳界では世界的に記録が伸び悩んでいる。この「BRS−TX」を使用した水着によって、どんなタイムが飛び出すのか関係者の注目度は高い。

 一流選手は「浮心」で泳ぐ

 そして、山本化学工業はさらに新たな領域に挑戦しようとしている。対象とするのは、これから水泳を始めようとする人や、もっと速く泳ぎたいと考えている選手たちだ。同社はこれまで、びわこ成蹊スポーツ大学の若吉浩二教授と共同で泳ぎに関する科学的分析を行ってきた。その中で一流選手と、そうではない選手の間にひとつの大きな違いがあることを発見した。

 結論から言えば、一流選手は「浮心」で泳ぎ、そうでない選手は「重心」で泳いでいる。人間も含め、多くの物体が水中で浮くのは、下からの浮力を受けているからに他ならない。そのバランスポイントが「浮心」である。人間の浮心はみぞおちのやや下にある。一方、人間の重心はへその下、つまり下腹丹田にある。陸上運動において下腹丹田を重要視するのは、何より重心でしっかりバランスをとることが、よりよいパフォーマンスにつながるからだ。しかし、水泳においては「浮心」での泳ぎを意識し、重心と浮心の位置を近づけるほうが潜在能力をより発揮しやすくなる傾向にある。

 陸上運動同様に水中でも「重心」でバランスをとると、自然と30秒もすれば足のほうが水中に沈んでいく。足が沈めば、それだけ上体は上がり、泳ぐ際には前から水の抵抗を受ける形になってしまう。逆に「浮心」でバランスがとれていれば、体は勝手に沈んでいかない。この姿勢で泳げば、水面に対して体を並行に進めることができる。つまり、水からの抵抗を極力小さくすることが可能になるわけだ。

 ただ、私たちは泳ぐ際に「重心」や「浮心」を意識することはまずないだろう。
「それは自転車に乗っている時にバランスを意識しないのと同様です。泳げる人は自然とバランスをとっている。だからこそ、どちらでバランスをとっているのか分かりにくいし、矯正もしにくいんです」
 そう語る山本富造社長は2年の開発期間を経て、この「浮心」で泳ぐフォームを身につけるための水着開発に成功した。『速くおよげるーの水着』と名づけられた新製品は、浮力のある素材(ウェットスーツ素材)を活用し、形状はトランクスタイプ。これを通常の水着の上に着用して泳ぐと、通常より下半身が浮き上がるため、必然的にバランスをとるポイントが上半身に上がる。こうして、へそ下の「重心」で泳いでいた選手が、みぞおち下の「浮心」を使えるようになるわけだ。

 競泳人口を倍増させたい

「今回の水着は浮力を与えて速くするのではありません。浮力を活用して、正しい泳ぎをマスターしてもらう。そのことによってタイムを上げるお手伝いをするわけです」
 この着眼点から山本化学工業では、泳ぎの矯正のみならず息継ぎをサポートするグッズも開発した。こちらもウェットスーツ素材を活用し、血圧測定のように二の腕に捲く形になっている。
「息継ぎがうまくできない人は、どうしても首が水中から上がらず、水を吸ってしまって慌ててしまう。だから浮力のあるものを上半身につけることで、まずは息継ぎをしやすくしてあげるんです。そうして息継ぎの要領を覚えてもらえれば、素材を外してもうまく泳げるようになります」

『速くおよげるーの水着』は、よりタイムを伸ばしたい選手はもちろん、泳ぎが苦手な人や身体障害者にとって、いわば自転車の“補助輪”の役割を果たす。特に身体にハンデを負った障害者の場合、健常者と比べてバランスがうまくとりにくいため、最初のうちは浮力を使った補助は欠かせない。

「世界の人口は70億人弱ですが、実はまともに泳げる人は13億人しかいないと言われています。体ひとつでできる“泳ぐ”という行為をもっと世界中で普及させて、競泳人口を倍増させたい。それが私たちのひとつの目標です」
 水中では生きられない人間にとって、何より泳ぐことは自らの命を守るために重要な意味を持つ。加えて水中では、浮力の関係で陸上よりも人体にかかる重力が軽減されるため、水泳は高齢化社会の中で誰もが気軽にできる生涯スポーツとして、今後も大きなウエイトを占めるに違いない。

 トップアスリートのみならず、すべての水泳を楽しむ人たちのために――。ハイテク水着の世界は、その領域を大きく広げようとしている。


 山本化学工業株式会社