久方の アメリカ人のはじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも

 こんな摩訶不思議なアトラクション、ワシは生まれて初めてみたぞな、もし。
 市長の中村時広ハンがマウンドに上がったのはええけど、いったい、なんぼ投げたんやろう……。7球? 8球? 演説する時よりも、よっぽど生き生きとしとったがな。
 自らネクタイをほどき、腕まくりをしての大熱投。バッターボックスの若松勉ハン(全セ・リーグ監督)も、打ってええのか、打ったらいかんのかわからず、キョトンとしとった。ホンマ、ご苦労なこっちゃ。
 でも、さすがに現役時代、2回も首位打者を獲っただけのことはあるワ。最後はうまいこと打球を三遊間へ持っていきよった。
 これで野球好きの市長ハンも、ええ思い出ができたやろう。始球式でもないのにマウンドに立ち、それも往年の強打者相手に“真剣勝負”を挑んだ市長ハンなんて、ワシら聞いたことないで。
 ファンもぎょうさん集まっとったけど、まさか「市長コール」まで起こるとは思わんかった。まったく投げる方も投げる方なら、それをあおる方もあおる方や。

 まあ、こんな風景が見られるのは、おそらく日本中でここだけやろう。それだけマッチャマ(松山)の人は野球が好きやということや。野球を愛しておるということや。
 このまちの人々は日常生活の中に野球が溶け込んでおる。ウソやと思うんやったら、一回来てみい。高校野球の夏の予選でも始まったら、もう大変やで。マッショウ(松山商)は弱いとか強いとか、その話題で持ち切りや。焼き鳥屋で飲んどっても、サウナに入っとっても、子供連れで海水浴にいっとっても、どこでもこの話題や。ホンマ、野球の嫌いな人は、このまちには住めんかもしれん。

 そんなマッチャマの人々が、一番誇りにしている人物が郷土出身の俳人・正岡子規や。子規は文学者としてはもちろん、“野球の父”としても知られておる。
 そもそも「野球」という言葉の来歴は、第一高等中学校で子規の3年後輩にあたる中馬庚が1894年(明治27年)夏、「Ball in Field」から思いつき、一高の野球部史上初めて活字にしたところからスタートする。
 しかし、中馬が「野球」という言葉を初めて使う4年前、すでに子規は「野球」なる雅号を用いていたという話や。なぜなら子規の幼名は「升(のぼる)」。のぼるが「ノ・ボール」、つまり「野球」になったちゅうことや。それほどまでに子規はベースボールというスポーツを愛しておったんや。

 子規は随筆『筆まかせ』の中で日本と西洋の運動遊戯を比較し、「愉快とよばしむる者たゞ一ツあり。 ベース、ボール也」とまで言っておる。
「二町四方の間ハ弾丸ハ縦横無尽に飛びめぐり 攻め手ハこれにつれて戦場を馳せまわり
 防ぎ手ハ弾丸を受けて投げ返しおつかけなどし あるハ要害をくひとめて敵を擒にし弾丸を受けて敵を殺し あるハ不意を討ち あるハ夾(はさ)み撃し あるハ戦場までこぬうちにやみ討ちにあふも少なからず 実際の戦争ハ危険多くして損失夥(おびただ)し ベース、ボール程愉快にてみちたる戦争ハ他になかるべし(『筆まかせ』第一編)
 ちなみに「直球」「飛球」「四球」「打者」「走者」――といった野球用語も、子規がすべて翻訳したものや。子規は野球の紹介者であると同時にプレイヤーであり、批評もしていることから考えると、日本初のスポーツジャーナリストであったとも言えるやろう。

 その子規が今年、没後100年ということもあり、新世紀特別表彰で野球殿堂入りを果たした。球場で行われた式典には、千葉茂氏をはじめ、松山が生んだ偉大な野球人が多数かけつけた。
 さすが野球王国だけあって、野球殿堂入りしている愛媛出身者は錚々たる顔ぶれや。
 日本最初のプロ野球チーム「日本運動協会」の創設に参加した押川清、松山商―立教―阪神で活躍し、ミスタータイガースとして知られる景浦将、巨人の第1期黄金時代を築き、阪神の監督時代には昭和37年、39年のリーグ優勝を成し遂げた藤本定義、松山商の監督として初の全国制覇、早稲田の監督としては9度のリーグ優勝、後に大洋球団監督・社長まで務めた森茂雄、川上哲治らとともに巨人第2期黄金時代の主力として活躍した千葉茂、近鉄球団のオーナーとしてパ・リーグの発展に貢献した佐伯勇、巨人の選手から審判に転じ、3451試合を裁いた筒井修、1000試合出場、1000本安打達成を日本で初めて達成した坪内道則、巨人の監督としてチームを2度、日本一に導いた藤田元司……。この人らがおらんかったらプロ野球はできとったんか? 巨人は球界の盟主にまでなってたんか? 阪神に伝統は生まれとったんか? そう思えるような人ばかりや。その偉大なる系譜に、郷土の、いや、この国の“球祖”とでもいうべき正岡子規が加わった。没後100年にして、“野球の父”に再びスポットライトが当てられたというわけや。

<この原稿は2002年8月1日号『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>
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