高知高校では3度の甲子園出場を果たした高木悠貴が、さらなる高みを目指して進学先に選らんだのは六大学野球リーグの一つ、法政大学だ。ところが、そこで待ち受けていたのはケガによる野球人生初の長期離脱だった。2年時の1年間はほとんどボールに触ることなく、走り込みを繰り返す毎日だったという。
「入学当初から最終的には4年生になって試合に出られるようになればいいなと思っていたので、焦りはありませんでした」
 涼しげな表情でそう語る高木だが、人知れず悩みはあったに違いない。何よりも野球ができないことへの苦しさがあったことは想像に難くない。それでも高木は一度も野球を辞めようとは思わなかった。言葉には表さないが、彼はやはり根っからの“野球少年”なのだろう。
 高木の右肩が悲鳴をあげたのは、大学1年の秋、練習中のことだった。あまりの痛みに投げることができない。病院に行くと、右肩の炎症と診断され、しばらくの休養を言い渡された。そこで「どうせまともに練習ができないのなら」と、右ヒジの手術をすることにした。実は、高木は小学生の時から右ヒジに痛みを覚えていたのだ。関節の軟骨がはがれた関節遊離体、いわゆる“(関節)ねずみ”が原因で痛みを発症する「離断性骨軟骨炎」だった。それまで騙し騙しやってきたが、これを機に遊離軟骨を除去する手術を行なうことにしたのだ。

 手術後、ヒジの痛みは3カ月ほどで消えたが、あいかわらず肩の痛みは続いた。軽くは投げられるものの、少し強めに投げようとすると、痛みをぶり返した。肩のリハビリは、それから1年以上も続いたのだ。ようやく本格的に練習ができるようになったのは、3年生になる直前の2月からだった。

「怖いものはなくなりました」
 ケガをし、野球人生で初めて長期離脱したことで高木は、それまで以上にメンタルの強さを得ていた。その言葉通り、高木は3年秋のデビュー戦でいきなり5打数2安打1打点を放った。しかも相手は今やプロ野球セ・リーグの新人王候補の一人として注目されている野村祐輔(広島)。当時、明治大学のエースだった野村から、高木はヒットと打点を挙げたのだ。
「まったく緊張することなく、久々の試合を楽しんでいました(笑)」

 そのデビューのきっかけは意外なところにあった。3年秋のリーグ戦を2週間後に控えたオープン戦、高木は監督に呼ばれ、「オマエ、レフトの経験あるのか?」と聞かれた。とっさに「はい、あります」と答えた高木。もちろんウソはついていない。ただ、それは中学時代のことで、高校3年間はセカンド一筋だった。
「レフトのレギュラーの選手がケガをしてしまったんです。内野手の僕に声がかかったのは、おそらくバッティングを買ってくれたんじゃないかと思います。監督にはレフトの経験が中学時代だということは言っていませんけどね(笑)。でも、『あるか』と聞かれたので『あります』と」
 咄嗟の返事は、高木の試合に出場したいという強い気持ちの表れだったに違いない。

 だが、徐々に試合の機会は減っていった。終盤には代打の起用さえもなかった。それでも高木自身は調子は悪くないと思っていた。時折、「そろそろ代打に出るかな」と一人、ベンチ裏で素振りをして準備することもあったという。だが、監督に呼ばれる回数は減っていった。
「何で使ってくれないんだろう……」
 好調さを感じていただけに、高木にとっては模索の日々が続いた。

 ようやく高木がレギュラーの座をつかんだのは、4年生となった今年の春だった。これまでの鬱憤を晴らすかのように、高木は13試合に出場し、チームトップの打率3割1分4厘をマークする活躍を見せた。特に印象に残っているのは4月22日の立教大学戦だ。その試合、チームは7回まで2安打に抑えられていた。しかし、1−1で迎えた8回裏、1死一、二塁の場面で高木の打席がまわってきた。
「ここで打ったらオレ、ヒーローやな」
 外角寄りのストレートを高木は思いっきり叩いた。打球は左中間を破り、二塁ランナーが生還。これが決勝タイムリーとなった。もともとどんな場面で打席がまわっても、緊張しないタイプという高木だが、ケガの功名でさらに強さを増したと感じている。本領発揮はこれからである。

(第2回につづく)

高木悠貴(たかぎ・はるき)
1990年10月5日、高知県高知市生まれ。小学生で野球を始め、中学からは内野手として活躍。高知高校では1年秋からレギュラーとなり、2年春・夏、3年夏と3度、甲子園に出場した。卒業後、法政大学へ進学。1年秋に右肩を故障し、長いリハビリ生活を経て、3年秋にリーグ戦デビュー。今年の春季リーグ戦ではチームトップの打率3割1分4厘をマークした。









(斎藤寿子)
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