関東学生陸上競技連盟加盟大学のシード権を持つ10校と予選会を勝ち抜いた9校に、関東学連選抜を加えた合計20チームが出場する「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)。東京都千代田区大手町から鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町・芦ノ湖を往復するコースの総距離は217.9キロである。“学生三大駅伝”(箱根駅伝、10月の「出雲全日本大学選抜駅伝競走」、11月の「全日本大学駅伝対校選手権大会」)の中でも最も長く、そして注目度の高い“箱根”の舞台に立つことを夢見て、大学の門を叩く者は多い。東洋大学陸上競技部の市川孝徳もそのひとりだ。


 東洋大の変革期

「東洋大はこれから強くなる」。同大の佐藤尚コーチは市川を勧誘する際、そう説いたという。その言葉通り東洋大は、箱根の常連校という殻を破ろうとしていた。

 2009年の箱根駅伝では、当時1年生の柏原竜二が5区で“山の神”今井正人(順天堂大学)が07年に出した記録を超える区間新を叩き出し、8人抜き、4分58秒差を大逆転。往路と復路を制し、67度目の出場で初の総合優勝を成し遂げた。柏原も市川同様、高校時代は全国では無名ランナーだった。彼もまた佐藤にスカウトされ、東洋にやってきたのである。

 そして、その年の春、市川は18年住んだ地元を離れ、東洋大に入学した。新生活を始める彼とともに同大陸上部は新たなスタートを切っていた。監督には福島の学法石川高校で陸上部顧問を務めていた酒井俊幸が就任した。酒井は東洋大OBで箱根駅伝に3度出場した経験を持つ。卒業後はコニカ(現コニカミノルタ)に入社し、全日本実業団対抗駅伝競走大会にも出場し、3連覇に貢献した。コニカで酒井と同僚だった谷川嘉朗もコーチとして東洋大に加わった。新たなコーチングスタッフを迎え、東洋は生まれ変わろうとしていた。

 笑顔での箱根デビュー

 大学駅伝、とりわけ箱根駅伝に出ることを夢見ていた市川だが、東洋大入学後には、夢は目標へと変わっていた。そのチャンスは早くも1年目から巡ってきた。“秘密兵器”として、1年生ながら6区を任されたのだ。市川は当時を振り返り、こう語る。「夢から目標に変わったというか。その目標が1年目から達成できた。とにかく夢中になって走った気がします」

 6区は芦ノ湖から小田原中継所までの20.8キロを走る。通称“山下りの6区”と呼ばれ、最初の4キロを上ると、そこから13キロ以上下りが続く。前日の往路では5区の柏原がこの年も快走。自身の区間記録を上回る好タイムで往路連覇に貢献し、2位・山梨学院大学に3分36秒差をつけていた。

 市川はスタート直前、胸に手を当てた。高ぶる思いを必死に抑えようとしているようにも見えた。号砲が鳴り、勢いよく飛び出した。最初の5キロを16分36秒で走った。入りの5キロは16分半から16分40秒を目安にしていた市川にとって予定通りのペース。下りに入っても快調なピッチを刻み続けた。9.1キロすぎの小涌園前を通ると、沿道に人垣ができていた。駆け抜ける市川に対し、歓声が沸き起こると、自然と彼の顔は綻んだ。

 沿道の声援に対し、弾けるような笑顔を見せていた市川だったが、13キロを過ぎるとペースが落ち始めた。原因は下りはじめて3キロあたりで違和感を覚えていた左足にあった。実は、この時に左足親指の爪が剥がれていたのだ。距離を重ねるにつれ痛みは増していき、「精神的にも、肉体的にも未熟で、少しのことで動揺してしまいました」と、17キロ手前では、小涌園での笑顔から一転、今にも泣き出しそうな顔になった。躍動感のあった走りは明らかにバネを失っていた。それでも最後はフラフラになりながらも、何とか7区の田中貴章へとトップのまま襷を繋いだ。

 後続の先輩たちが先頭を明け渡すことなく走り切り、東洋大は総合連覇を達成した。市川の大学駅伝デビュー戦は区間9位と、華々しい結果ではなかった。それでもレース後のインタビューでは笑顔が戻り、「最高です。楽しかった」と喜びを語った。その表情には目標とする場所に立てたという充実感が滲んでいた。

  勝負の怖さを知った敗戦

 翌年の箱根駅伝も市川は“山下りの6区”を任された。この年も、東洋大は往路を制し、復路は首位スタートとなった。しかし、リードはわずかに27秒しかなかった。当時の心境を市川は「少し不安はありました。でも、(往路2位の)早稲田大学4年の高野(寛基)さんはそこまで評判の高い選手ではなかったので追いつかれることはないかなっていう気持ちは正直ありました」と語る。実際、1万メートルの自己ベストは市川が高野を50秒近く上回っていた。2度目の箱根駅伝となる2年生の市川に対し、高野にとっては最初で最後の大舞台。しかし、レースはフタを開けてみると名門・早稲田の意地が市川に襲いかかった。

 序盤の5キロは16分47秒。前年と比べて慎重な入りだった。これは「前半は飛ばすのではなく、余裕をもって後半に持って行け」との酒井監督からの指示だった。8.7キロで高野に追いつかれたが、市川に焦りはなかった。相手の息はあがっていた。むしろ27秒差を一気に詰めてきたことに対し「相当飛ばしているな」 という印象を抱いていた。「どちらかというと、自分の方が余裕もありました。たぶん、後半失速するんじゃないかと思っていたんです」

 ところが、そこから約10キロも市川と高野の抜きつ抜かれつの激しいデッドヒートが展開された。15.5キロ地点では高野が凍った地面に足を滑らせ転倒。それでもすぐさま立ち上がると、市川に食らいつく。互いの意地やプライドがぶつかり合う熾烈な一騎打ちに決着がついたのは18.19キロだった。市川は力を振り絞り、一度、高野を抜いて前に出るも、すぐ抜き返される。ここまで幾度も抜き返していた市川だったが、もう競り合う余力は残っていなかった。そこから高野にぐんぐん突き放され、東洋大の27秒の貯金は小田原中継所で36秒の借金へと変わっていた。7区大津翔吾に2位で襷を渡した市川のタイムは59分58秒。これは前年の自身のタイムを1分近く上回るものだったが、結果として高野の勝利への気迫に屈したかたちとなった。

 東洋大は8、9、10区と区間賞の走りで、早大を猛追したが、許したビハインドを最後まで引っくり返すことはできず、総合2位に終わり3連覇には届かなかった。一方の早大は史上3校目となる大学駅伝3冠を達成した。東洋大は歴代最小差、わずか21秒に涙を呑んだ。20歳の市川は、勝負の世界の恐ろしさを思い知ったのだった。

(第3回につづく)
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市川孝徳(いちかわ・たかのり)プロフィール>
1990年11月3日、高知県生まれ。小学校1年生からサッカーを始め、高校1年生から本格的に陸上競技に転向する。高知工業高校では、3年連続で「全国高等学校駅伝競走大会」に出場した。東洋大学進学後は、1年生から「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)に出場を果たし、復路の山下りの6区を任され、優勝を経験する。2、3年生の時も6区を任されている“山下りのスペシャリスト”だ。3年生の時には、「出雲全日本大学選抜駅伝競走」と箱根駅伝で、区間賞を獲得し、チームの2冠に貢献した。今シーズンから陸上競技部の副将、駅伝主将を務める。身長177センチ、51キロ。

(写真:(c)東洋大学陸上競技部)



(杉浦泰介)


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