2008年12月1日。徳島商業高校の野球部グラウンドでは、翌シーズンに向けての練習が始まろうとしていた。新人戦、秋季大会と満足のいく結果を残すことができず、最終学年となった杉本裕太郎たちにとっては、甲子園へのチャンスは残り1度限りとなっていた。ミーティングを終え、いつものようにランニングを始めようとした、その時だった。
「監督、ちょっと目の調子が悪いんです」
 そう訴えたのは、杉本の無二の親友であり、バッテリーを組んでいた原一輝だった。
「どうしたんだろう……」
 杉本は心配になったが、それほど大事には考えていなかった。原はすぐに病院へと向かった。そして、翌日から原はグラウンドではなく、病院のベッドの上で過ごすことになったのである。
「あれ、なんだか監督の顔がぼやけてきたなぁ……」
 練習前のミーティング中、指揮官の話を聞きながら、原は異変を感じていた。前日までは何の異常も見られなかった右目がかすみ始めたのだ。ランニングを始めようと立ち上がった瞬間、平衡感覚を失い、大きくよろけた。すぐに近所の病院へ行くと、視力は左目が2.0だったのに対し、右目は0.05にまで落ちていた。光がようやくわかるくらいの視力しかなかった。すぐに紹介された大学病院へ行くと、「多発性硬化症」と診断された。中枢神経系の難病指定の疾患だった。

「なんでこんな時に……」
 ちょうどその頃、原はトンネルから抜け出しつつあった。新チーム発足後、部員たちの話し合いで原はキャプテンに選ばれた。ところが、「オマエではダメだ」と監督は認めようとはしなかったという。
「確かにそれまでの自分は、キャッチャーとしてまだまだ未熟で、配球や守備でのミスもあったんです。監督からすれば、それは気持ちが入っていないから。みんなのことを考えていないからだ、と。だから、とにかくキャプテンに認めてもらえるように守備もバッティングもきちんと成績を残そうと努力しました」
 そんな姿を見て、監督も徐々に原をキャプテンとして認め始めていた。ようやく原が正式にキャプテンに就任したのは、秋の四国大会後のことだった。その頃、夏の大会後に痛めていた肩も治り始め、原の調子は非常に良かった。そしてチーム自体も軌道に乗り始めていた。ようやく歯車がかみ合い始めていたのだ。病が発症したのは、そんな矢先のことだったのである。

 女房不在で募る危機感

 杉本は親友に起きた突然の出来事に、驚きを隠せなかった。しかし、立ち止まることは許されなかった。夏に甲子園への切符を掴むには、冬の間のトレーニングがモノをいう。さらに、副キャプテンという立場上、彼は原の代わりにチームをまとめなければならなかった。元来、温和でマイペースな性格の杉本にとって、自ら先頭に立っての牽引役は想像以上に難しかった。
「周りをよく見ながら、声を出して引っ張っていかなければいけないとは思ったのですが……。もともと、そういうタイプではないので、キャプテンの代役はすごく苦労しましたね」

 翌年、春の県大会は決勝進出を果たしたものの、その決勝では前年夏の決勝で敗れた鳴門工に逆転負け。3−4とわずか1点差に泣いた。さらに四国大会では初戦で明徳義塾高校(高知)と対戦し、1−11の5回コールド負け。先発した杉本は初回、1死も取れずに6失点を喫した。小学校時代からバッテリーを組んできた原の不在は、杉本のピッチングにも影響を及ぼしていたことは否めない。
「その頃は、コントロールが乱れて打たれることが多かったですね。とにかくアウトコースへの真っ直ぐが、常に決められるくらいのコントロールを身につけようと、投げ込みを増やしました」
 杉本は夏への危機感を募らせていた。

 一方、自宅療養していた原は、3月にグラウンドへと戻ってきた。退院後、ステロイドを使った治療による副作用で、はじめは立ち上がることさえもままならなかったという。外出するまでには約2カ月を要した。3月にはようやく学校へ通うようになり、野球部の練習も再開した。しかし、右目の視力は戻っておらず、地面に置かれたボールを捕球するところからのスタートだった。その後、必死で視力回復トレーニングも行ない、4月下旬にはピッチャーの投球したボールが見えるようにまでなっていた。

 そんな5月のある日、原は練習試合で代打出場した。視力は少し回復していたとはいえ、ピッチャーが全力で投げたボールを打つなどということは、到底できないと原自身は思っていた。しかし、監督からの命令は絶対である。「いくしかない」と腹を決め、バッターボックスに立った。
「たとえ三振に終わったとしても、自分が必死になってバットを振っている姿を見て、みんなが何かを感じてくれればいい」
 そんなふうに思っていた。ところが、原はライトオーバーの三塁打を放ってみせたのである。
「初球、アウトローのスライダーでした。体が勝手に反応したんです」

 三塁に到達した原がベンチを見ると、部員たちが跳び上がって喜んでいる姿が見えた。さらに嬉しかったのは、いつもは冷静な監督までもが喜んでいたことだった。
「みんなそれまでは僕が復帰するのは無理だろうと思っていました。でも、その一打で『もしかしたら、夏までに間に合うかもしれない』と期待するようになったんです。僕自身、そんなチームの雰囲気を感じながら、自分が復帰したら、もっとチームがひとつになるかもしれない、と思っていました」

 築かれた真の友情

 ところが、事態は予期せぬ方向へと向かって行った。人知れず努力をし続けた原は、少しずつ調子を上げていった。いや、調子うんぬんというよりは、できることを増やしていったと言った方がいいかもしれない。右目に度を入れたサングラスを装着するなど、でき得る限りの工夫と、絶え間ない努力、そして残りはそれまで培った“野球勘”でカバーしながら、「投げる」「捕る」「打つ」という行為を必死に行なっていたのである。

 だが、それは部員たちには伝わっていなかったようだ。「本当は見えているんじゃないか」。原に対して、疑いの目を向けるようになったのだ。それほど原のプレーは難病を抱えているようには見えなかったということだろう。それは本来なら称賛されるべきものである。しかし、一度かみ合わなくなった歯車を元に戻すことは、容易ではなかった。

 ただ原にとって救いだったのは、2人の親友は全く変わらなかったことだった。
「実は後から知ったのですが、杉本と高島は当時、僕のいないところで部員たちに『オマエら、そういうこと言ってて、恥ずかしくないのか?』と怒ってくれていたそうです。2人供、いつもボーッとしていて(笑)、そんなこと言うようなヤツらじゃないのに。それを聞いた時、恥ずかしいですけど、涙が出てしまいました」

 そして、こう続けた。
「中学時代は対戦がしたくて、2人とは違う高校に行きたいと思っていましたが、やっぱり3人で一緒に野球をやれて良かったなと思いました。同じチームだったからこそ、彼らの良さが改めてわかりましたし、友情が深まったんだと思います。一生ものの友人を手に入れることができました」
 そして、3人にとって、最後の夏が始まろうとしていた。

 ラストマウンドとなった最後の夏

「3人で甲子園に行こう」
 その約束をかなえるラストチャンス、夏の予選が始まった。徳島商は初戦の2回戦、辻高校を16−0と投打で圧倒し、5回コールド勝ちを収めた。そして迎えた3回戦、相手は鳴門第一高校。試合は両エースの好投が続き、手に汗握る投手戦となった。8回を終えた時点で2−2。このまま延長に入ることも十分に考えられた。だが、その直後、試合が大きく動いた。初戦に続いて、この日も先発を託された杉本は、粘り強いピッチングを続けていたが、終盤にきて疲労が出てきたのだろう。9回表、1死満塁と大ピンチを招いた。打席には、初回から投げ合ってきた相手エース。キャプテンも務める大黒柱だけに、ここで打たれれば鳴門第一は一気に勢いに乗ることが予想された。逆に杉本が抑えれば、流れは徳島商へと傾く可能性が十分にあった。だが、スライダーが甘く入ったところをライトに運ばれた。「打たれてはいけない」という気持ちが力みを生じたさせたのだろう。鳴門第一に大きな勝ち越し点が入った。

 相手ベンチとスタンドが歓喜に沸く中、杉本の元に原が駆け寄ってきた。
「今日勝ったら、(親に)焼き肉に連れて行ってもらおうや。さぁ、さっさと終わらせるで!」
 そう言って、原は杉本のお尻をポンと叩いて、戻って行った。
「よし、ここからや」
 杉本は気合いを入れ直した。だが、そんな気持ちとは裏腹に、スタミナが切れかかっていた体では、思うようなボールを投げることができなかった。結局、3失点を喫し、徳島商は4点ビハインドで9回裏の攻撃を迎えた。

「相手エースに勝ち越しタイムリーを打たれてからの4失点でしたから、杉本は相当悔しかったと思います」と原。そんな杉本の心情を汲み取っていたのは高島も同じだったのではないか。9回裏、2死から高島は杉本の敵討ちとばかりに、ホームランを放ってみせた。さらに、ヒットでランナーが出ると、杉本は粘って四球を選び、一、二塁とした。次の打者が出塁すれば、原に打順が廻ってくる。

(なんとか打ってくれ!)
 一塁ベース上で、杉本は祈るようにバッターを見つめていた。
「カキーン!」
 金属バットの鈍い音とともに、打球はショートへと転がっていった。杉本は必死に走った。
「アウト! ゲームセット!」
 二塁手のグラブにボールが収まった瞬間、3年間の高校野球にピリオドが打たれた。

「終わったんやな……」
 バスで学校に戻り、寮の玄関に入った途端、杉本はこみ上げてくるものを我慢することができなかった。結局、3人で甲子園でプレーするという目標を達成することはできなかった。悔しさとともに、杉本は自らのピッチャーとしての限界を感じていた。高校最後の登板は、彼にとってラストマウンドとなった。

(最終回につづく)

杉本裕太郎(すぎもと・ゆうたろう)
1991年4月5日、徳島県阿南市生まれ。小学1年の時、「見能林スポーツ少年団」に入り、野球を始める。中学3年時には県総体で優勝、四国総体で4強入りを果たした。徳島商業高では1年春からベンチ入りし、2年秋からエースとして活躍する。青山学院大では野手に転向し、1年春からレギュラーとして試合に出場。2年秋には東都リーグ史上6人目となるサイクル安打を達成し、ベストナインにも選ばれた。189センチ、80キロ。右投右打。









(斎藤寿子)
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