ジャンプ、大回転、クロスカントリー、モーグル……多くのスキー種目のなかで、フリースタイルスキーの「スロープスタイル」は、次々とアクロバティックな演技が繰り出されるエンターテイメント性の高いスポーツだ。来年に迫ったソチ五輪で新たに採用される種目のひとつで、大久保亜弥はソチ五輪出場を目指す同競技の女子日本代表である。

「まったく技を知らない人が見ても『わあ、すごい!』と興奮する。選手だけじゃなく、競技を見ている人のほうが楽しめるのが、一番の魅力だと思いますね」
 こう競技の魅力を語る大久保の明るい表情からも、スロープスタイルの魅力が感じとれた。

 スロープスタイルでは数百メートルのコースにジャンプ台、鉄のレール(公園の階段についている手すりのようなもの)、ボックスが設置されている。それらは総称して“アイテム”と呼ばれ、コース上に7〜8つ設置されている。そのアイテムごとに技を繰り出し、それの難易度と完成度を審査員がジャッジして順位を決める。予選、決勝でそれぞれ2度演技し、高いほうを最終得点とする。同じく技を競うモーグルとは異なり、タイムは審査対象にならないが、1度でも手をついてしまえば優勝の可能性が消える。まさに完璧なスキー能力(総合滑走力)が問われる種目なのだ。

 景色が変わった10回目のジャンプ

 大久保は神奈川県鎌倉生まれの平塚育ちだ。それら一帯は「湘南」と呼ばれ、サーフィンやビーチスポーツが盛んな海と関わりの深い地域だ。彼女の父親は漁師で趣味はサーフィン。大久保もさぞかし海で遊ぶことが大好きな少女だったのだろう。ところが、彼女は「海で泳ごうなんて気持ちは全くなかったですね」と苦笑する。というのも、父親から海にまつわる事故の話などを聞いていたため、海の素晴らしさと同時に、危険性も認識していたのだ。

 そんな幼少時代に出合ったのがスキーだった。冬になると親交のある複数の家族や友達などとリゾートスキーへ出かけた。
「本当に自己流で、体で覚えてきたという感じですね(笑)。気付いた頃には滑れるようになっていました」
 毎日見ていた海で遊ぶことも楽しかったが、それ以上にスキーは「スキーのために1年があるんだ」というくらい楽しいものだった。中学、高校ではバレーボール部に所属していたが、冬になると毎シーズン欠かさずスキー場に足を運んだ。そうして芽生えたのが「スキーのインストラクターになりたい」という夢だった。

 2002年、19歳になった大久保は、新潟県湯沢市にある「ルーデンス湯沢」というスキー場でアルバイトも兼ねて、インストラクターになるためのスキースクールを受講した。これが、彼女の運命を大きく変えた。

 ある日、スクールの校長が、表彰台くらいの高さのジャンプ台を使ってビッグエアーの練習をしていた。ビッグエアーとはフリースタイルスキーのひとつで、巨大なジャンプ台から飛び立ち、空中で繰り出した技の完成度を争う競技だ。校長はビッグエアーのプロライダーだった。近くで見ていた大久保は、校長から「オマエは体が頑丈そうだから、転んでもケガをしない。飛んでみろ」と声をかけられた。彼女は言われたとおり、挑戦することにした。
(写真:空中で技を繰り出す。提供:大久保亜弥)

 高さはそれほどでもないとはいえ、大久保にとって人生初のジャンプ台だ。1回目はジャンプした後にふかふかの新雪の上で尻もちをついてしまった。2回目、3回目とチャレンジするが、どうしてもうまく着地できない。迎えた10回目、大久保はジャンプ台から飛び立った後に、しっかりとランディングに成功した。
「10回目のジャンプの時はドーパミンが出ました(笑)。『うわ、すごい! ジャンプするとこんなに景色が違うんだ』と」
 とはいえ、この時、大久保には「ビッグエアーの選手になる」という明確な気持ちはなかった。だが、周囲が彼女を放ってはおかなかった。コーチや練習施設を紹介するなど、流れは彼女がフリースキーヤーになるように動いていった。

 その後、大久保はスキー会社で働くようになった。夏はトランポリン施設、冬はモーグルのコースをつくりながらジャンプの練習に取り組んだ。メキメキと実力をつけ、プロライダーとして参加した大会すべてで表彰台に上がった。優勝こそできなかったものの、彼女は充実感に満たされていた。
「当時は1位になりたいと思ってやっていたわけではありませんでした。たくさんの人が見てくださるので、その嬉しさと自分の好きなスキーを披露できるということが幸せでした」

 では、大久保はいつスロープスタイルをやり始めたのか。実はビッグエアーを始めた当初から、スロープスタイルの存在は知っていた。練習の一環でレールやボックスなどを使っていたのだ。初めてレールの上を滑る時は、「ビビって何もできなかった」という。
「男性2人に板の両端を持ってもらって、雪に埋めたレールの上に置いてもらったんです。そのまま補助してもらいながらレールの上で移動しました。今でも恐怖心はあります。ただ、クリアしようという気持ちのほうが大きいとできてしまうんです」
 そんな彼女がスロープスタイルに転向したのはビッグエアーを始めて6年が経った07年。その年に経験した喜びと悲劇がきっかけだった。

 同志の夢を継ぐため

 07年3月、新潟県上越国際スキー場で日本初の国際大会「日本オープン」が開催された。開催種目はスロープスタイルとハーフパイプで、大久保はスロープスタイルで出場することにした。その大会には、フリースタイルスキーのハーフパイプとスロープスタイルでスター選手だったサラ・バーク(故人、米国)も参加していた。大久保と同い年の彼女は、大久保がフリースタイルスキーを始めた時には、既に世界のトップシーンで活躍していた。

 予選を通過して迎えた決勝の1本目、大久保は大技の「900」(空中で2回転半する技)を披露した。普段は遊びで挑戦するのがほとんどで、成功度は低かった。それでも挑戦したのは、直前にサラが同技をいとも簡単に決めているのを見て「私も同じ場所でサラと同じ技で戦いたい」と思ったからだという。果たして、技は成功した。そして、この1本目で大久保は“ゾーン”を経験していた。
「体が思うままに動かせました。また、その時の映像、音、空気感を全部、鮮明に覚えているんです。スタートした時も、空中で演技している時も。盛り上げ役のMCの会話までも記憶しています。こんな感覚はこの1度だけですね」
 結果は5位だったが「スロープスタイルでもやっていける」と自信を得た。
(写真:アイテムの一種「レール」を滑る。提供:大久保亜弥)

 ところが、喜びもつかの間の同年4月、大久保に悲報が飛び込んできた。様々な面で世話になっていたスキー雑誌の男性編集者が、カナダでヘリスキー(リフトのない所や高い山などにヘリコプターに乗って着陸し、そこから滑降すること)中に雪崩に巻き込まれて亡くなったのだ。その編集者はスキー業界を盛り上げてきた大久保たちの同志でもあった。訃報を聞いた時は、大きなショックを受け、悲しみに打ちひしがれた。そんな中、参列した葬儀・告別式で、編集者の妹からこう懇願された。

「お兄ちゃんがスキー雑誌社に入った理由は、日本女子のスロープスタイルスキーシーンを盛り上げるためなんです。日本は海外に比べて遅れているから、『それを僕が盛り上げます』と履歴書に書いて入社しました。その夢を継げるのは亜弥ちゃんたちだけです。お兄ちゃんの夢を継いでください」
 大久保はその言葉をしっかりと受け止め、「スロープスタイルの選手として世界で戦っていこう」と決意した。そして彼女は積極的に海外遠征を行うと同時に、スロープスタイルという競技の普及も精力的に行っていくことになる。

 スロープスタイルの伝道師として

 プロライダーの活動をしながら、さまざまなイベントを企画した。ガールズキャンプ(女性のみの合宿)や渋谷のクラブを貸し切ってのファッションショーなどをプロデュースした。だが、協賛する企業やスキー用品メーカーからは厳しい意見をもらった。それは「影響力が弱すぎる」ことだった。集客数はガールズキャンプでは30名、ファッションショーでは100人程度。また、イベントが記事になったとしても、それを見るのはその業界関係者だけだ。つまり、根本的な競技認知度向上にはつながらないという分析だった。改善策として「“お笑い”の要素を普及活動に取り入れてみては」という案もあった。エンターテインメント性を追求することが、普及にもつながると考えたからだ。大久保も頭の中に引っかかったが、実行には移さなかった。

 競技活動と普及活動の両立に四苦八苦していた大久保が激動に飲みこまれたのは、08年9月のことだっだ。「リーマンショック」である。その影響で活動資金源のアルバイト先が倒産し、登録していた派遣会社からもいわゆる“派遣切り”で仕事が回ってこなくなった。スポンサー企業からも倒産や吸収合併などを理由に援助を打ち切られた。ただでさえ海外への遠征費の工面に苦労していた大久保は、ウェアやスキー板の支援もなくなった。練習するにも施設利用料などがかかる。支援のなくなった大久保は、競技継続が困難な状況に陥ってしまったのだ。追い打ちをかけるように急性扁桃腺炎を患い高熱で寝込んだり、結婚を考えていた恋人と別れるなど、悪い状況が重なった。
「もう、どん底でした(苦笑)。“スキーができない”と」
(写真:雪山以外ではトランポリンやウォータージャンプなどで空中技を磨く。提供:大久保亜弥)

 アルバイトを続けながら国内で活躍するのは可能だとしても、それでは意味がない。大久保の目標は世界で戦う選手になることだ。ある時、リフトで一緒になった海外の選手から、「自分はメーカーから支援金が出るため、1年中いろんな雪国で練習している」という話を聞いた。
「日本でまったく同じ状況をつくるのは難しい。どうすれば海外の選手と似たような時間がつくれるのかを考えました。ですから、働いている時間も競技普及に携われることをやろうと。頭の中に引っかかっていた“お笑い”を生かそうと思いました」

 そんな10年2月、勉強のため購入したお笑い雑誌で彼女はある広告を発見した。「よしもとクリエイティブカレッジ」(YCC)。「よしもとクリエイティブエージェンシー」が主宰する脚本家やイベントスタッフを養成する学校である。大久保は詳細をHPで調べ、「自分のために行くしかない」と入学を決断した。
 もちろん、競技との兼ね合いを考えた上での決断だ。その頃、スキー界では2018年の韓国・平昌冬季五輪で、スロープスタイルが正式種目になるという噂が流れていた。ゆえに、大久保は選手としては18年の五輪を目指し、競技の伝道師としてはYCCでイベントプロデュースを学んで普及活動をしていく目標を立てた。

 1年通ったYCCでは映像制作やWEB、グッズ製作など、自分のアイデアの“伝え方”を総合的に学んだ。
「今までの狭い視点が、一気にブワーっと広がりました」
在学中には実際に舞台監督やプロデューサーとして2回、興行を行った。
 11年3月に卒業後は、競技復帰のトレーニングをしつつ、YCCで学んだことを発揮していこうと考えていた。ところが卒業して3カ月後、スロープスタイルが14年ソチ五輪で正式種目になることが決定したのだ。「これは競技生活にすべてを注がないといけない」と当面の目標をソチ五輪出場に軌道修正した。競技復帰後、人生初の国際スキー連盟(FIS)が主催するW杯(12年2月、フィンランド)に出場し、7位入賞。続くアメリカ大会は14位だったが、ポイントは獲得できた。順調にソチへ向かっていると思われたが、すぐに大きな壁が立ち塞がった。それはマイナー競技について回る競技資金の不足だった。

 MWCで感じた人とのつながり

 ソチ五輪に出場するための基準はまだ発表されていない。条件を満たせば自動的に派遣が決まるわけではなく、日本スキー連盟(SAJ)から選出されなければ、五輪に出場することはできない。ゆえに、SAJ関係者に「この選手はメダルが期待できる」と思わせるため、W杯や国際大会で結果を出すことが重要だ。12年7月には、2012−13シーズンの主要国際大会の日程が発表された。W杯はアルゼンチン(12年9月)、アメリカ(同12月)、スイス、ロシア(ともに13年2月)、スペイン(同3月)があり、ノルウェーで世界選手権(同3月)も行われる。大久保は招待制のスペイン大会以外のW杯に参戦し、SAJに実力をアピールする必要があった。

 しかし、海外遠征には渡航費や滞在費など1大会平均で40万円の費用が必要になる。参戦予定の大会は半年で4つ。アルバイトではとても捻出することができない額だ。板やブーツなど足回り用具のスポンサーはついていたが、活動自体を支援してくれるスポンサーの確保が急務となった。

 そこで大久保がまず行ったのは、マイナースポーツの選手が活動支援を求める情報サイト「アスリートエール」への登録だった。YCCに通っていた頃、関係者から存在は聞いていたものの、卒業後は練習に打ち込んでいたため、登録はしていなかった。その後、縁あってスポーツ・コンサルティング会社「スポーツゲイン」の岩田一美と面談する機会があった。その岩田から紹介されたのが「第2回マルハンワールドチャレンジャーズ」(MWC)だった。

 MWCでは、最終オーディションの14名に入れば協賛金50万円を獲得できる。さらに、オーディションで上位7名には賞金が授与される。活動資金を必要としていた大久保にとって、願ってもないチャンスだった。最終オーディションに参加するには「アスリートエール」で伝えている活動状況などを審査する書類選考を通過する必要があった。大久保はこの書類選考を通過する自信があったという。
「私は競技に対しても人生に対しても、『絶対にこうなる』と思って行動したら、それが実現してきました。MWCへの参加も、岩田さんと話した後に地元との交流を増やしたり、いろんな人に支援をお願いしていく段階で『絶対に書類選考は通る』という確信があったんです」
 彼女の確信は間違いではなかった。応募総数657名から、ファイナリスト14名に残ったのである。それでも、通過の連絡を受けた時、大久保は「ホッとした」という。そして、真っ先に「これが競技普及につながる第一歩になれば」と思った。

 しかし、8月28日の最終オーディションでは本人が「準備不足でした」と苦笑するように、上位7名には入れなかった。というのも、オーディションの4日前まで約1カ月半にもおよぶニュージーランド遠征を行っていたのだ。インターネットの環境も悪く、日本の関係者との連絡も満足にできなかった。また、「どこかで上位7名には入れないだろうな」という思いもあったという。

 しかし、MWCで得たものは協賛金ばかりではなかった。それは人と人とのつながりである。
「MWCに参加するまで、地元の人たちに自分の競技を伝えたことがありませんでした。海の街なので、スキーのことを言っても興味を持ってもらえないかなという思いがあったからです。MWCをきっかけに初めて自分がやっている競技のことを言葉で伝えることができました。おかげで、たくさんの人が興味を持ってくださったと感じています。応援の言葉をかけてもらう中で『ああ、ひとりでやっているんではないんだな』という思いもたくさん感じました」
 故郷・湘南が、フリースタイルスキーヤー・大久保のホームにもなったのだ。

 MWCで得た協賛金50万円はW杯の遠征費に使用した。初戦のアルゼンチン大会は9位に入り、ソチ五輪に向けてまずまずのスタートを切った。しかし、その後はSAJが定める「W杯参戦基準値テスト」で不合格が続いた。種目のひとつである20メートルシャトルラン85本をクリアできなかったからだ。そのため、アメリカ大会への参加ができなくなってしまった。大久保は「なかなか合格できなくて、アスリートしての自信を喪失していました」と振り返った。アメリカ大会に参加できなかったため、SAJの選考の指針となるFISW杯ポイントランキングで大幅に順位を下げた。
(写真:昨年9月のW杯アルゼンチン大会の様子。提供:大久保亜弥)

 心が折れそうな彼女を支えたのが周囲からのサポートだった。地元のトレーニングジムの知り合いにメニューを作成してもらい、練習する時は友人が応援やパートナーとして付き合ってくれた。アスリートフードマイスターには食事管理を徹底的に行ってもらった。周囲に支られながら、大久保はテストに合格にするため、でき得る限りのことをやった。そして迎えた昨年12月25日のテストで、大久保はシャトルラン85本をクリアした。その時、溢れたのは合格の嬉しさではなく、支えてくれた人たちへの感謝だった。大久保はソチ五輪へ再スタートを切った。

 今年2月のスイスW杯では予選2本ともに手をついてしまい、決勝には進めなかった(最終順位は19位)。現在のW杯世界ランキング18位(2月15日時点)は、日本人選手で3番手の位置だ。さらに順位を上げたいところだが、ソチ五輪のプレ大会となるはずだったロシア大会が雪不足のため中止となった。上位選手が招待されるスペイン大会への出場も難しくなり、ソチ五輪出場への道は険しさを増している。現在はもうひとつの選考指針となるFISポイントを獲得するために海外遠征の計画を立てているという。そのための資金確保にも奔走している。万が一、ソチ五輪に出場できなかったとしても、その努力は18年の平昌五輪につながっていくはずだ。
「諦めないで最後まで戦おう」
 同志の夢、自分が愛するスロープスタイルのため――海辺で育ったスキーヤーは歩みを止めるわけにはいかない。

(次回はラクロス・長谷川玄選手を紹介します。3月6日更新予定です)


<大久保亜弥(おおくぼ・あみ)プロフィール>
1982年5月22日、神奈川県生まれ。プロスキーヤー。専門はフリースタイルスキー・スロープスタイル。幼い頃からリゾートスキーを経験。19歳の時に、スキーインストラクターになるためのスクールを受講する。その際に、スクールの校長からビッグエアーを勧められ、ビッグエアーのプロライダーとして活躍する。しかし、07年3月に日本で行われた国際大会のスロープスタイル部門で5位入賞し、競技転向を決断。普及活動にも精力的に取り組み、芸能事務所が主宰する学校でイベントプロデュースについて学んだ。現在は14年のソチ五輪を目指している。観客を沸かせる豪快な技が武器。160センチ。
>>公式サイト

『第2回マルハンワールドチャレンジャーズ』公開オーディションを経て、7名のWorld Challengers決定!
>>オーディション(2012年8月28日、ウェスティンホテル東京)のレポートはこちら


※このコーナーは、2011年より開催されている、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(鈴木友多)
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