その経歴は枚挙に暇がないほど、華やかである。日本ユニシス実業団バドミントン部女子チームに所属する松友美佐紀は、小中高のシングルスすべてで日本一を経験している俊英だ。高校時代から組んでいる1学年先輩の高橋礼華とのダブルスは、今や日本のトップクラスどころか、世界でも指折りの存在となりつつある。そして松友はバドミントンの実力もさることながら、頭脳明晰である。中学3年時の内申はオール5、高校3年時の最後の成績もオール5だった。「天は二物を与えず」ということわざがあるが、美女アスリートと言われる彼女に、天は二物も三物も与えていた。


「バドミントンを始めた時から、自分が思ったように相手が反応してくれて、その逆を突けた時は、すごくうれしいですね」
 松友に得意なプレーを訊ねると、そう答えて、彼女はいたずらっぽく笑った。

 小柄な松友は幼い頃から、自分よりも大きい相手とばかり戦ってきた。力対力では敵わない。では勝つためにはどうすればいいか。彼女が導き出した答えは――。
「相手をしっかり見て、崩すこと。そうやって試合を作っていくのが、自分の仕事です」
 それが彼女の生きる道だった。自分の長所と短所を理解した上での結論なのである。

 所属する日本ユニシス女子チームの小宮山元監督は「いい意味で“汚さ”というか、頭が良い。相手が打たれたら嫌な場所を、いつも考えていますね」と、その狡猾なプレースタイルを分析する。練習の合間のシャトル打ちでも、松友にはそういった意図を感じるという。さらに小宮山は松友の向上心の高さを評価している。「試合をよく観ますし、自分やライバルの試合もビデオでチェックしている。研究熱心ですね」

 現在、日本代表のコーチを兼務する日本ユニシスのリオニー・マイナキーコーチも松友に対する称賛を惜しまない。
「テクニック、メンタル、そして相手のタイミングを外すプレーが素晴らしい」
 元インドネシア代表のリオニーが太鼓判を押すのは、小宮山同様、能力の高さだけではない。
「彼女は、自分に厳しくできるし、自分で(物事を)判断できる」。そういった姿勢が「吸収力が早い」と言われる松友の成長を助けているのだろう。バドミントンが国技のインドネシア人の目から見ても、その才能はモノが違うのだという。

 貪欲な向上心

 松友がバドミントンを本格的に始めたのは、小学1年になってからだ。母が趣味でやっていたこともあり、幼少時代から2歳上の姉とともにバドミントンという競技に自然と触れる機会があった。小学生になった姉が地元の少年団チーム・藍住エンジェルクラブに所属すると、まだ園児の松友も一緒になって練習について行った。そうしているうちに、松友は次第にバドミントンに惹かれていった。それまでは器械体操、ピアノなどの習い事をしていたが、向いていなかったという。小学校に入れば、チームに入団できることもあり、家族に「(他の習い事を)やめる」と言って、バドミントンに打ち込むことを決意した。

 藍住エンジェルに入ると、着々と力をつけていった。小学4年の時には、全国小学生選手権4年生以下の部で初優勝を果たす。以降、5年生、6年生以下の部と毎年、全国制覇を成し遂げた。それでも松友が満足することはなかった。

 2学年ごとに3クラスに分かれた全国小学生ABC大会では、3年の時のBグループ(3、4年生の部)、5年の時のAグループ(5、6年生の部)では5位に終わった。同年代の選手には勝てても、年上相手には勝てなかったのだ。負けず嫌いの松友にとっては、たとえ年上であろうと、負けは許せなかった。

「指導していただいていた方からも、両親からも“1歳上、2歳上に勝てるようにならないと”と教わってきました」。松友の性格に加え、こうした指導からも“もっと上、もっと上へ”という意識の高さは、形成されていった。

 地元への恩返し

 松友は小学校を卒業する頃、進路の選択を迫られる。なぜなら4年から学年別の全国大会を制していた松友を、県外の強豪校が放っておくわけはなかったからだ。
「地元に残るか、県外に出るか。少し悩んだ時期もありました。でも中学3年になる時に全中(全国中学校体育大会)があったので、徳島に残ることに決めました」
 彼女は自分を今まで育ててくれた故郷に恩を感じていた。さらに周囲からの期待も感じ取っていた。義理堅い松友は、誘いのあった学校に断りを入れ、地元の徳島中学に進学したのだった。

 2年時には、岐阜で行なわれた全中のシングルスで3位に入り、団体では5位入賞を果たした。そして3年となり、徳島での全中が近づいた頃、松友に転機が訪れる。

 大会の直前、約1カ月半のジュニア強化合宿が中国で行なわれた。日本バドミントン協会が世界と戦える選手を育成するためにバドミントン王国での合宿を組んだのだ。代表メンバーに選ばれた松友は、そこで適応力の高さをいかんなく発揮した。当時、日本バドミントン協会のジュニア強化部長を務めていた阿部秀夫は、彼女を「芯の強い子」と語り、こう証言する。
「他の子は食べ物が合わないとか、環境の違いに馴染めなかったりしましたが、彼女は何でも食べるし、物怖じしない。そういった精神的なタフさがありましたね」

 松友が順応していったのは生活面だけではなかった。バドミントン界の頂点に君臨する中国は、ジュニアといえど、当然レベルは高い。そんな中で彼女は、1、2歳上で、身長は10センチも20センチも大きな選手と練習で対峙した。最初は全く歯が立たなかった。

「相手にならなくて申し訳ないくらいでした。でも、やっぱり悔しかった」
 負けず嫌いの彼女にとって歯ぎしりするような思いがあったに違いない。それでも何度も中国人選手と打ち合っていくうちに、活路を見出していった。そして日本に戻る頃には、中国人選手とファイナルゲームまでもつれるような力をつけていた。松友は短期間ではあったが着実に、成長の手ごたえを感じ取っていた。

 そして8月、異国の地で、自信を得て帰ってきた松友は、「今までお世話になった人のために、絶対勝ちたかった」という徳島での全中に臨んだ。シングルスの決勝は、大阪代表と対戦。第1ゲームを2−11で落としながらも、2ゲームを11−4、11−6と連取し、逆転勝利を収めた。松友は見事に全中初優勝を果たした。加えて、団体戦でも優勝。地元開催の全国大会で2冠を達成し、故郷にこれ以上ない恩返しをしたのだった。

 さらなる成長を求めて東北へ

 松友は中学卒業後、地元を離れることを選ぶ。進学先は、宮城県の聖ウルスラ学院英智高校だった。中高一貫校である聖ウルスラ学院の監督・田所光男は、松友が小学6年の時にも彼女にアプローチをかけていた。2003年に宮城で行なわれた全国小学生大会で彼女を見た田所は、体が小さくてパワーは劣っていたが、それを補ってあまりある松友の反射神経やフットワークの俊敏さに目を奪われた。何よりバドミントンに必須な能力である、プレーの先を読む力、“予見力”があったという。田所はそんな彼女を高く評価していたが、結局は地元の学校で全国大会優勝を目指すことを理由に断られていたのだ。

 ただ松友が全国制覇を成し遂げたことで、田所の目に狂いはなかったことが証明された。実は、団体戦決勝の相手は聖ウルスラ学院の中等部だった。田所にとっては、いわば“フラれた”松友の活躍によって、優勝を阻まれる皮肉な結果となったわけである。改めて松友の強さを思い知らされた田所は、彼女を再び聖ウルスラ学院へ勧誘。そして今度こそ、松友を振り向かせることに成功したのだ。

 決め手は環境だった。聖ウルスラ学院には松友の1学年上の世代に高橋礼華、玉木絵里子ら全国レベルの強者が揃っていた。この世代は6カ年計画として、宮城県外からも優秀な選手を集め、中高一貫で育て上げ、08年インターハイ制覇を目論んでいた。松友は、中国での合宿を経験し、日々の練習から高い水準で切磋したいとの思いを強くしていた。それが自身の成長のためには必要な糧だと考えたのだ。

 また、聖ウルスラ学院は部活動だけでなく学業にも力を入れている学校だ。向学心のあった松友にとって、学業の面においても魅力だったのだろう。翌春、生まれ育った町から遠く離れた宮城の地で、松友の高校生活がスタートした。そこで彼女は最高の“伴侶”を手にすることになる。

(第2回につづく)

>>第2回はこちら
>>第3回はこちら
>>最終回はこちら

松友美佐紀(まつとも・みさき)プロフィール
1992年2月8日、徳島県生まれ。6歳で本格的にバドミントンを始め、小中学生時に全国大会優勝を経験する。中学卒業後は地元を離れ、宮城の聖ウルスラ学院英智高校に入学。2年生時に全国高校総体埼玉大会でシングルス、ダブルス、団体の3冠を達成した。卒業後は日本ユニシスに入社し、09年度から日本代表入り。10年には世界ジュニア選手権の女子シングルスで準優勝を果たす。日本リーグでは高橋礼華と組んで、日本ユニシスの10、11年の連覇に貢献。高橋とともに2年連続で最優秀選手賞に選出される。11年には全日本総合選手権の女子ダブルスで優勝し、シニアで初の日本一に輝く。翌12年も制覇し、現在女子ダブルスの日本ランキング1位。同年の国際大会で好成績を残すなど、BWF世界ランキング4位(2月28日現在)に入る。159センチ。右利き。

(プロフィール写真:(C)日本ユニシス)



(杉浦泰介)


◎バックナンバーはこちらから