「小学生の頃から取材をしていただいた時には、“将来はオリンピックに出たい”と言っていました。でも、やっぱり夢というか……。テレビで他の競技を見ていても、華があって、いっぱい取り上げられているオリンピックの大会で、“自分も戦いたい”“いつか出たいな”と思っていました」
 4年に1度のスポーツの祭典であるオリンピックは、多くのアスリートにとって、頂点の大会という位置づけにある。バドミントンプレーヤーの松友美佐紀も同じだった。ただ、その頃の彼女にとっては、まだ漠然とした夢にすぎなかった。しかし時を経るにつれ、その想いは徐々に輪郭を帯びていった。


 松友は日本ユニシスに入社後まもなく、メキシコでのBWF(世界バドミントン連盟)世界ジュニア選手権に出場した。団体戦では3勝をあげ、日本代表の5位入賞に貢献。シングルスでは準決勝でアジアジュニアを制した中国人選手をファイナルゲームの末に破る快挙を見せた。決勝で前回女王のタイ人選手にゲームカウント1−2で敗れたが、準優勝は日本人最高位タイの成績だった。すでにジュニアを超えてシニアでも日本代表入りを果たしていた松友だが、大会に向けては焦りがあったという。

「世界ジュニアで結果を出さないと、ユースオリンピックに出場できなかったので、無我夢中で戦っていました」
 世界ジュニア選手権でベスト4に入ると、その年のシンガポールで開催されるユースオリンピックの出場権を獲得できた。ユースオリンピックとは国際オリンピック委員会(IOC)のジャック・ロゲ会長が提案し、創設された14歳から18歳を対象とした若年層のアスリートによるオリンピックである。シンガポール大会は、その記念すべき第1回だった。

 自らが掴みとった出場枠で、ユースオリンピックに出場した松友は、グループリーグ初戦でオランダ人選手と対戦した。しかし179センチの長身から繰り出す強打に苦戦。ファイナルゲームで落とし、黒星スタートとなった。続くモーリシャス共和国とカナダの選手にはストレートの圧勝。グループリーグを2勝1敗で終えた。だがリーグ1位のみが決勝トーナメントに進むため、2位の松友は、ここで姿を消す形となった。

 それでもシンガポールでの経験は貴重なものだった。
「国際大会で行ったことのある会場だったのですが、やっぱりオリンピックというだけで雰囲気が全然違いましたね」
 オリンピックの“疑似体験”をした彼女は、夢への憧れを一層強くしたのだった。

 “優勝請負人”の殊勲

 10年の日本リーグは、松友の所属する日本ユニシスバドミントン部女子チームにとって、昇格1年目のシーズンだった。10月に開幕したリーグ初戦は七十七銀行と対戦した。トップバッターを任されたのは、ルーキーの松友と2年目の高橋礼華との“タカマツ”ペアだった。相手ペアはともに170センチを超える長身。試合はファイナルゲームまでもつれたが、“タカマツ”が21−11で最終ゲームをモノにし、1部での初勝利へ向け、チームを勢いづけた。後続の打田しずか、張之博&浅原さゆり組はストレートで勝ち、トータルスコア3−0で日本ユニシスが白星発進した。

“タカマツ”は2戦目のNTT東日本戦では3試合目に登場し、三谷美菜津&新玉美郷のルーキーペアを一蹴した。チームも2連勝し、迎えた3戦目はルネサスSKYとのゲーム。トータルスコア1−1のタイでの3試合目に“タカマツ”の出番は巡ってきた。対戦相手はBWF世界ランク4位の藤井瑞希&垣岩令佳組だ。09年の大阪インナーナショナルチャレンジ準決勝ではファイナルゲームで倒した相手だったが、この年の同大会の決勝、デンマークオープン2回戦ではストレートで敗れていた。

 優勝のためには越えなければならない“壁”だった。しかし、第1ゲームは16−21で失うと、第2ゲームもリードを許す苦しい展開。そこから“タカマツ”も我慢強く粘り、逆転でこのゲームを奪い返す。これで勢いに乗り、ファイナルゲームも21−13で制した。チームにとっても“タカマツ”にとっても、これは単なる1勝ではなかった。自分たちの力を確信する価値ある勝利となり、これで日本ユニシスは完全に波に乗る。

 快進撃を続ける日本ユニシスは、その後も連勝街道をひた走った。第5戦では、ここまで全勝の三洋電機に3−0の完勝。“タカマツ”は1試合目で松尾静香&内藤真実組と対戦し、2−1で勝利を収めた。リーグ5連覇中の強豪を撃破し、さらに勢いに乗った日本ユニシスは、第6、7戦の岐阜トリッキーパンダース、ヨネックスにも3−0で勝利を収め、リーグ昇格1年目にして、全勝優勝という快挙を成し遂げた。またこのシーズンは男子も日本リーグを制しており、男女アベック優勝のおまけつきだった。日本リーグの最高殊勲賞(MVP)には全勝優勝の立役者、7戦全勝の“タカマツペア”が選出された。ルーキーの松友は新人賞も獲得し、社会人として最高のスタートを切った。

 日本一でも変わらぬ“もっと上へ”の姿勢

 日本リーグMVPの“タカマツ”にも、まだ手に届かぬタイトルがあった。10年は3位に終わった全日本総合選手権である。松友にとっても、小さい頃からテレビで観ていた大会。彼女も「日本一を決める大会で優勝したいという思いは、ずっとありました」と明かす。

 そして11年の全日本総合では、悲願のタイトルへと邁進した。女子ダブルス第4シードの“タカマツ”は、1回戦から準々決勝までストレート勝ちを収め、順当に準決勝進出を果たす。初の決勝への道に立ち塞がったのは、大会連覇を狙う末綱聡子&前田美順(ルネサス)組。北京オリンピック4位の言わずと知れた“スエマエ”コンビだ。

 実績では到底敵わない相手だが、“タカマツ”は日本ランキング1位の“スエマエ”に臆することなく挑んでいった。第1ゲームは序盤に大きくリードを広げるが、“スエマエ”も反撃。一時は15−15に追いつかれるが、前衛の松友が相手を揺さぶり、後衛の高橋が決める得意の型に持ち込んで21−18の接戦で先取する。

 続く第2ゲームも競った展開となる。しかし17−17となったところで、勝負強い“スエマエ”に4連続ポイントをあげられた。結局、このゲームを17−21で落とし、勝負はファイナルゲームへ突入する。

“タカマツ”は序盤から相手のミスなどでリードを奪うと、一気に畳み掛ける。20−16でマッチポイントを迎えると、最後も得意の型で試合を締めた。松友の鋭いクリアー(自陣後方から相手コート後方に打ち出すショット)で末綱を崩すと、甘く返ってきたシャトルを高橋が一閃。強烈なスマッシュに前田は返し切れずに、力ないシャトルはネットに当たってポトリと落ちた。この瞬間、“タカマツ”の初の決勝進出が決まった。高橋はヒザを着いて両手を握り締め、松友はコートを飛び跳ねて喜びを露わにした。

 日本一にあと一歩と迫った決勝戦で対したのは、2年前の優勝ペアの松尾&内藤組だ。第1ゲームを接戦で取ると、第2ゲームはなんと100回を超えるラリーが続くなど、まさに死闘となった。高橋は「倒れるまでやろうと決めていた」という覚悟で臨んでいた。それに応えるように後輩の松友も相手のショットを拾い続けた。最後は内藤がコート隅を狙って押し出したショットがサイドラインを割り、アウトとなった。根気で粘り勝ちした“タカマツ”がストレート勝ちを収め、全日本総合初制覇を達成した。

 初Vの勝因を日本ユニシスバドミントン部女子チームの小宮山元監督は、こう解説する。
「接戦で我慢できるようになったのが大きいですね。競っている場面でもシンプルに相手のコートにシャトルを返していた。“もう返してこないだろうな”と思っていた相手の焦りもあったのではないかと思います」

 大会を振り返ると、ハイライトとなる準決勝、決勝の相手は、ともにナショナルチームで合宿行うなど、日頃から凌ぎを削ってきた選手たちだった。
「みんな私たちより格上のペアで、練習でも勝ったことはありませんでした。だからこそ、私たちは挑戦する気持ちで戦うことができたんです。でも、10回やって10回勝てるかと言われたら、その実力はまだなかった。だから本当の1番になったという感じではありませんでした」
 日本一の称号を得ても、松友は満足していない。その視線の先には、「世界で勝つ」という更なる頂があるからだ。彼女の“もっと上、もっと上へ”の飽くなき向上心は小さい頃から染みついている。

 さらに、その年、日本ユニシスは日本リーグを制覇した。前年度に続き全勝で連覇を達成。MVPには2年連続で“タカマツ”が輝いた。とはいえ、松友はその栄誉にも驕ることもなかった。
「1年目のMVPは全勝していただけたものだったので、心の底からうれしかったんです。2年目も、もちろんうれしかったんですけど、チームに助けられての優勝でした。潮田(玲子)さんや平山(優)さんなどの先輩方や、まわりに助けていただいて獲れたMVPだったんです」
 日本リーグ第2戦で“タカマツ”はルネサスの末綱&前田組に1−2で敗れていた。そのことがあって、松友は手放しに喜べなかったのだろう。貪欲な向上心を持つ彼女の“らしさ”は変わらない。

 逃した夢への切符

 念願の日本一を手にし、日本リーグの連覇に貢献した“タカマツ”だったが、翌年に控えたロンドン五輪への出場には厳しい位置にいた。ダブルスのオリンピック出場権は12年5月3日の時点でBWF世界ランク1〜8位に2組以上が入っている国に、2つの枠が確保される。選考レースで日本代表はその条件を維持しながら、2つの枠を国内のライバルたちと争わなければならなかった。

 全日本総合を獲ったばかりの“タカマツ”はBWF世界ランク18位だった。その上には藤井&垣岩組(3位)、末綱&前田組(5位)、松尾&内藤組(7位)と、トップ10に入る3ペアがいた。当然、国内4番手の“タカマツ”には限られたチャンスしかなく、高ポイントを獲得できるような大きな大会への出場の優先権もなかった。オリンピック、世界選手権に次ぐスーパーシリーズに出場しても、8強止まりに終わったこともあり、ランキングを伸ばすことはできなかった。

 結局、代表が発表された5月3日時点での“タカマツ”のBWF世界ランキングは20位。ロンドン五輪の女子ダブルス日本代表は4位の“フジカキ”、6位の“スエマエ”が選出された。

 夢破れた松友であったが、本人にとっても、この経験は大きかったという。
「オリンピックの出場権を獲るための1年間をまわりの先輩方と一緒に戦ってみて、オリンピックに懸ける思いを身近で感じることができました。自分たちも出たいとは思っていましたが、(先輩たちの)その姿を見て、心の底から“次は絶対、自分たちが出る”と思うようになりました」

 オリンピックは夢から目標へ、向かう先はロンドンからリオデジャネイロへ――。見上げる先の視界はよりクリアになった。そして次のステージへとスタートを切った松友に、新たな変化が生まれていた。

(最終回につづく)
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松友美佐紀(まつとも・みさき)プロフィール
1992年2月8日、徳島県生まれ。6歳で本格的にバドミントンを始め、小中学生時に全国大会優勝を経験する。中学卒業後は地元を離れ、宮城の聖ウルスラ学院英智高校に入学。2年生時に全国高校総体埼玉大会でシングルス、ダブルス、団体の3冠を達成した。卒業後は日本ユニシスに入社し、09年から日本代表入り。10年には世界ジュニア選手権の女子シングルスで準優勝を果たす。日本リーグでは高橋礼華と組んで、日本ユニシスの10、11年の連覇に貢献。高橋とともに2年連続で最高殊勲選手賞に選出される。11年には全日本総合選手権の女子ダブルスで優勝し、シニアで初の日本一に輝く。翌12年も制覇し、現在女子ダブルスの日本ランキング1位。近年では国際大会で好成績を残すなど、BWF世界ランキング2位(3月14日現在)に入る。159センチ。右利き。



(杉浦泰介)


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