石橋良太には歳の離れた2人の兄がいる。幼少時代はサッカーに夢中になっていた石橋だが、2人の兄の影響もあって、小学1年から地元大阪府堺市の軟式野球チーム「長曽根ストロングス」に入った。最初は特に野球が好きだったわけではなかったという。野球が面白いと思い始めたのは小学4年の時。自分がピッチャーとして投げた大阪府の大会で優勝し、それをきっかけに勝つことに快感を覚えたのだ。
 小学5年の時、長曽根ストロングスは全国大会で初優勝を達成した。さらに翌年には、大会史上初の連覇を果たす。2大会連続で最後のマウンドに立っていたのは、石橋だった。最も印象に残っているのは、連覇がかかった6年時の決勝だという。
「肩を痛めていて、テーピングでガチガチに固めていた状態だったのですが、決勝では先発を任されたんです。でも、初回で打たれてしまって、一度はショートに行きました。でも、よっぽど悔しかったんでしょうね。監督に自分から『もう一度、投げさせてください』とお願いしたんです」
 計5回0/3を投げて8安打6四死球7失点。散々な結果だったが、それでも味方打線が14安打14盗塁の猛攻で25得点を叩き出し、前年に続いての日本一となった。

 公式戦無敗の58連勝と、まさに“常勝軍団”のエースを務め、2度も全国優勝の瞬間をマウンドで迎えた石橋。ピッチャーとして将来を嘱望され、また本人もプロを夢見ていたと考えるのが普通だが、石橋から出た言葉は意外なものだった。
「僕はずっとピッチャーよりも野手の方が好きだったんです。だって、大事なところでヒットが打てたら気持ちがいいし、その瞬間にヒーローになれる。でも、ピッチャーは長い時間、抑え続けなければいけない。野手の方が何倍も楽しかったですね」

 憧れだったストライプのユニフォーム

 石橋は中学生になると、硬式野球チーム「浜寺ボーイズ」に入り、遊撃手として活躍。2、3年時には全国大会にも出場した。高校は四国の名門・明徳義塾に進学した。実は、石橋がずっと憧れを抱いていたのは地元大阪のPL学園だった。1998年夏の甲子園、松坂大輔(インディアンス)擁する横浜高校との延長17回の激闘は、今も歴史に残る名勝負として語り継がれている。PL学園は負けたとはいえ、当時野球を始めたばかりの小学1年だった石橋をはじめ、地元大阪では誇れる英雄だった。

 そんな石橋が明徳義塾に関心を寄せるきっかけとなったのが、2002年の夏、同校が初優勝した時のことだ。当時、主将を務め、チームの主戦だった森岡良介(東京ヤクルト)に憧れたという。その後、甲子園のスタンドでストライプのユニホームを着た選手たちの戦う姿を見る度に、明徳義塾への気持ちは膨らんでいった。

 すると、中学3年になった石橋に明徳義塾から誘いがかかった。断る理由はなかったが、一度、実際の練習を見学に行くことになった。学校が半島にあると聞いていた石橋は、自然に囲まれたところにあるのだろう、と想像をしていた。ところが、実際はその想像をはるかに超えていたのである。

 車は海岸線を走り、ようやく「明徳義塾」と書かれた門が見えてきた。ところが、車はそこを通り過ぎ、さらに山奥へと進んでいく。聞けば、明徳義塾には2つのキャンパスがあり、野球部が通うキャンパスは違う所にあるのだと言う。下町育ちの石橋には、想像を絶する風景だったに違いない。「大丈夫かな……本当にこんな山奥に学校なんてあるのだろうか」。15歳の少年は、一抹の不安を覚えていた。

 ようやく車は、野球部のグラウンドがある「堂ノ浦キャンパス」に到着した。校門の左手にあるグラウンドで、野球部員たちが練習をしていた。近づくと、張りつめた空気を感じたという。グラウンドの脇に立っただけで、その真剣さが伝わってきた。練習を見ているうちに、いつのまにか不安は消え去っていた。代わりに「来年、ここで野球をやるんだな」という決心にも似た気持ちが沸いてきていた。

 1年後、石橋は明徳義塾に進学した。上下関係の厳しさに気持ちが滅入ったこともあったが、高校生の球や打球にとまどうことは、ほとんどなかったという石橋は、夏の大会終了後、新チームでは二塁手としてレギュラーの座を掴んだ。だが、チームは新人戦や練習試合で思うような成績を残せずに苦しんだ。簡単に勝てるはずの相手に、コールドで負けそうになり、なんとか逆転勝ちしたという試合もあった。
「歴代で一番弱いチームだ」
 馬淵史郎監督からは、そんな厳しい言葉が投げかけられた。この時は誰も春の躍進を想像していた者はいなかったに違いない。

石橋良太(いしばし・りょうた)
1991年6月6日、大阪府生まれ。小学1年から野球を始め、長曽根ストロングスでは小学5、6年時に全国大会で優勝。中学時代は浜寺ボーイズで2、3年時に全国大会に出場した。明徳義塾高校では1年秋からレギュラーを獲得し、「1番・セカンド」で県、四国大会で優勝および明治神宮大会ベスト4進出に貢献した。翌春には選抜高校野球大会に出場し、2回戦の中京大中京戦では先制打およびサヨナラ打を放つ活躍をした。2年秋からは主将およびエースとなり、チームを牽引。翌春は四国大会で優勝するも、夏は県大会決勝で高知高に1点差で敗れた。10年、東都リーグ2部の拓殖大学に進学し、1年秋からは投手に専念する。2年秋に優勝するも、入れ替え戦で中央大に敗れた。主にロングリリーバーとして活躍し、1年秋(1.57)、2年秋(0.74)、3年秋(0.70)と3度、最優秀防御率をマークしている。通算成績は44試合に登板し、12勝14敗、防御率2.22。身長172センチ、68キロ。右投左打。



(斎藤寿子)
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