「史上最弱」と言われたチームの躍進は、その年の秋から始まった。県、四国を制した明徳義塾は、明治神宮大会では26年ぶりにベスト4進出を果たした。その理由を、石橋は次のように語っている。
「なぜ勝つことができたのか、自分たちも不思議な気持ちでした。でも、“明徳義塾”という看板を背負っているというプライドは常にありましたね。絶対に負けたくないという気持ちで戦っていました」
 ストライプのユニフォームを着ているという誇りが、本番での強さを引き出していた。
 2008年3月22日、第80回記念選抜高校野球大会が開幕。4年ぶりの出場となった明徳義塾は、第2日に東京大会覇者の関東一と対戦することが決定していた。「初戦からいきなりそんな強いところとかよ……ヤバイだろう」。選手たちはそんなことを口にしながらも、心では「絶対に負けられない」と思っていた。
「馬淵監督が就任して以降、明徳はそれまで一度も甲子園の初戦で負けたことがなかったんです。それを自分たちが崩すわけにはいかないという気持ちがありました」

 だが、石橋の調子は決して良くはなかった。打率4割4分4厘という好成績を残した秋季大会に続いて、春も甲子園入りする前の練習試合では10打席連続安打をマーク。しかもそのほとんどが本塁打を含む長打だったというほど、石橋は絶好調だった。ところが、いざ甲子園入りすると、快音がピタリと止んでしまったのだ。

 調子を取り戻せないまま臨んだ1回戦、石橋は「1番・セカンド」で出場した。結果は死球、左飛、左安打、左飛、左犠飛で3打数1安打1打点。9回表、2−1でリードした場面で打った犠飛での貴重な追加点は、明徳義塾にとって大きな1点となった。その裏、最後の打者が三ゴロに倒れると、石橋は笑顔でホームベースの前に整列した。それはようやく出た1本、そして伝統を守ったことへの安堵の表情だったのだろう。

 先制打&サヨナラ打

 5日後に行なわれた2回戦、相手は中京大中京(愛知)。それまでに春夏合わせて10度の優勝を誇る強豪校だ。その年もプロのスカウトが注目する強打者を擁し、優勝候補のひとつに挙げられていた。石橋は初戦で1本出たものの、やはり調子を取り戻すまでには至っておらず、「全然、打てる気がしていなかった」。

 技巧派のサウスポーに対し、石橋は1打席目、3球三振に切ってとられた。大きく曲がるカーブにまったくタイミングが合っていなかった。しかし2回裏、2死無走者からヒットと四球でつかんだ一、二塁というチャンスに、石橋は初球、高めに浮いたカーブを叩きつけ、レフト前へ運んだ。この一打で明徳義塾に先取点が入った。

 試合は3回表に中京大中京が2点を挙げて逆転に成功。しかし、6回裏に明徳義塾が同点に追いつき、そのまま決着がつかずに延長戦へと突入した。迎えた10回裏、明徳義塾はまたも2死無走者からチャンスをつかんだ。ヒットと相手エラーでランナーを二塁に置くと、打席には石橋を迎えた。石橋は先制点を叩き出したものの、その後は2度、チャンスをつぶしていた。逆に言えば、この試合で石橋は勝敗を分けるキーマンとなっていた。

 ベンチ前では、石橋を呼び止め、しきりに発破をかける馬淵監督の姿があった。馬淵監督は石橋に「敬遠も頭に入れておけよ」という言葉を送っていた。だが、すぐに「自分のかたちで思い切っていけ!」とも言ったという。16歳の石橋は、この指示に迷いが生じなかったのだろうか。

「今度こそ、自分で決めてやろう、と思っていました。それに、打席に入った時にキャッチャーをパッと見たら座っていたんです。『よし、敬遠はないな』と」
 大一番での冷静さに驚くと、石橋は苦笑いしながらこう語った。
「その後はほとんど何も覚えていないんです(笑)。気が付いたら、バットを振っていて、打球を見たらラインぎりぎりだったので、“入れ!”と思いながら走っていました」

 初球、真ん中高めの変化球に石橋はうまく合わせた。ライナー性の打球はジャンプして捕ろうとする一塁手の頭上を越えて、ライト線ぎりぎりに落ちた。二塁ランナーが一気にホームに返り、明徳義塾がサヨナラ勝ちを決めた。

 しかし3回戦では、その年、春夏優勝を遂げた沖縄尚学に1−3で敗れた。石橋は、一ゴロ、遊ゴロ、一ゴロ、三ゴロと、好投手・東浜巨(現福岡ソフトバンク)を打ち崩すことができなかった。
「試合前は、剛速球がビュンビュンくると思っていたのですが、実際に対戦してみると、普通に140キロ台のボールでスピードはそんなに速くはありませんでした。それでも、まったくタイミングが合いませんでしたね。4打席とも全てゴロを“打った”んじゃなくて“打たされた”という感じでした。“あれ? あれ?”と思う間に終わってしまった。それまで対戦したピッチャーとはレベルが違いました」
 約4カ月後の夏の県予選、明徳義塾は準決勝敗退。最後のバッターは石橋だった。

 悲しむ暇もなく、すぐに新チームが発足した。例年、キャプテンは選手たちの投票によって決定する。だが、その年は馬淵監督から直々に任命された。
「石橋、オマエがやらなあかん」
 さらに石橋はもうひとつ、重要な任務を託された。「背番号1」。それが石橋のその後の人生を大きくかえることとなった。

(第4回につづく)

石橋良太(いしばし・りょうた)
1991年6月6日、大阪府生まれ。小学1年から野球を始め、長曽根ストロングスでは小学5、6年時に全国大会で優勝。中学時代は浜寺ボーイズで2、3年時に全国大会に出場した。明徳義塾高校では1年秋からレギュラーを獲得し、「1番・セカンド」で県、四国大会で優勝および明治神宮大会ベスト4進出に貢献した。翌春には選抜高校野球大会に出場し、2回戦の中京大中京戦では先制打およびサヨナラ打を放つ活躍をした。2年秋からは主将およびエースとなり、チームを牽引。翌春は四国大会で優勝するも、夏は県大会決勝で高知高に1点差で敗れた。10年、東都リーグ2部の拓殖大学に進学し、1年秋からは投手に専念する。2年秋に優勝するも、入れ替え戦で中央大に敗れた。主にロングリリーバーとして活躍し、1年秋(1.57)、2年秋(0.74)、3年秋(0.70)と3度、最優秀防御率をマークしている。通算成績は44試合に登板し、12勝14敗、防御率2.22。身長172センチ、68キロ。右投左打。



(斎藤寿子)
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