山岡祐也がバレーボールを始めたのは小学1年生の時だ。5歳上の姉が地元のバレーボールチームに所属していたため、よく親と一緒に体育館へ見学に行っていた。それがきっかけで、「いつの間にかチームに入っていた」という。だが、当時の山岡が本当にやりたかったのは野球だった。グローブとボールを持って、友人と公園で遊ぶのが日課だった。
(写真:ⒸF.C.TOKYO)
 試行錯誤することで得た嬉しさ

 高知県ではプロ野球チームがキャンプを張ることもあり、山岡少年はサイン色紙を持ってよく球場に足を運んだ。
「巨人のファンだったんです。当時は監督が長嶋茂雄さんで3番に松井秀喜さん、4番には落合博満さんがいました。ピッチャーには桑田真澄さんや槙原寛己さんらもいて、僕にとっては最高のチーム。もう全員のサインをもらいましたよ(笑)」

 そんなふうに野球に恋焦がれながらも、山岡はバレーを続けていた。なぜ、彼はバレーをやめて野球に転向しなかったのか。
「4年生になった頃からスパイクを打てるようになったんです。最初はまったく上手に打てなくて、“どうすれば打てるようになるんだろう?”と試行錯誤を重ねました。そして、自分で考えた後にうまくスパイクを打てると、すごくうれしい。その繰り返しが楽しいと感じるようになったんです」
 現在、山岡が務めるセッターというポジションは相手の動きや味方の調子など、得点を奪うために様々な要素を考えながらプレーしなければならない。試行錯誤することが楽しいと感じた山岡は、この頃からセッターとしての素質を磨いてきたといえるだろう。

 小学校時代、山岡はバックセンターと呼ばれるポジションでプレーしていた。当時はローテーション制度がなく、山岡いわく「レシーブ、スパイク、ブロックのすべてをこなすポジション」だったという。小学校時代は2度の全国大会に出場を経験(小学1年、6年)。特に小学6年時は所属チームがなくなり、他のチームへ移るアクシデントがあったものの、そこでも山岡はバックセンターとして得点を量産してチームの全国出場に貢献した。そんな山岡の実力は、いつしか周囲の注目を集めるようになっていた。

「万能な選手でしたね。センスも感じられたので、いい選手になると思いました」
 こう語るのは私立高知中学・高等学校の元男子中学バレーボール部監督の小笠原健一(現高知中学・高等学校参与)だ。小笠原が山岡のプレーを初めて見たのは、彼が小学5年(1996年)の時だ。小笠原は高知県バレーボール協会の役員も務めており、2002年の地元・高知よさこい国民体育大会を見据え、開催年に高校2、3年となる小学5、6年の有望選手を探そうと、県内の小学校を視察に訪れていた。中高一貫教育の同校では国体に向けて継続的に指導することを目的としていた。

 小笠原は山岡が小学6年になった時、彼の両親に高知中学への推薦入試を打診し、本人にも「一緒にバレーをやろう」と声をかけた。こうして山岡は高知中学の推薦入試を受験し、合格。98年春に同校へ入学した。

 全国で痛感した高さの壁

「彼の身長からすれば、セッターでプレーするのが生きる道じゃないか。将来を考えて、中高ではセッターを経験させよう」
 小笠原は小学校時代の山岡を見て、彼の育成プランをこう考えていた。しかし、高知中には山岡の1学年上にセッターを務める選手がいた。ゆえに、セッター経験のない山岡を入学当初からレギュラーとして出場させることは難しい。逆にチームには攻撃の柱がいなかったために、小笠原は山岡をエースに育てることにシフトチェンジした。それだけ、山岡はアタッカーとしての能力も高かったのだ。
(写真:ⒸF.C.TOKYO)

 中学時代の身長は172、3センチほどで、バレーボール選手としては小柄だった。しかし、サージャントジャンプ(垂直跳び)で80センチ以上を記録するなど、天性の運動能力が山岡にはあった。そして、小笠原が「状況判断がすばらしかった」と振り返ったように、相手の高いブロックを利用してブロックアウトを狙うなど、うまさも光った。

 また、小笠原は彼の精神的な強さも高く買っていた。
「試合で仲間がミスをしても、逆に“自分のせいで1点取れなかった”とか“負けてしまった”とか……。そういう思いが強い選手でしたね」
 チームのみんなから信頼される人間――それが山岡だった。

 山岡は指揮官の期待どおり、エースとしてチームを牽引した。高知中では3年連続で全日本中学校バレーボール選手権大会(全中)に出場。3年時にはベスト16入りを果たした。山岡自身は2年、3年時に高知県選抜に選ばれ、全国都道府県対抗中学バレーボール大会「アクエリアスカップ」(現JOCジュニアオリンピックカップ)にも出場した。だが、全国の舞台を経験すればするほど、山岡はある思いを感じていた。

「上には上がいるな」
 特にアクエリアス杯では、全国との差を感じた。同大会では、身長190センチ以上の選手がごろごろいた。高角度からのスパイクに、山のようにそびえるブロック。「これが同じスポーツかよ」と山岡は衝撃を受けた。また、同大会ではネットの高さが国際規格の243センチ(全中は230センチ)に統一されていることも影響した。
「全中はネットが低かった分、速さやレシーブ力を生かして勝てる試合もありました。ただ、アクエリアス杯では単純に高さで負けてしまいました」

 だが、山岡は全国レベルとの差を痛感しながらも、その現実を悲観しなかった。
「中学まではただ来たボールを上げて、来たボールを打って、止めるというプレーしかしていませんでした。しかし、高校はそんなことではダメ。でかい相手にどうやったら勝てるのかを考えるようになりました」
 ぶつかった壁を乗り越えるための試行錯誤が楽しい――困難を楽しめるところも山岡が備えていた才能といえる。その結果、山岡は高校3年間で自身が「中学校時代とは全然違う」と感じるほどの成長を遂げることになる。

(第3回へつづく)

山岡祐也(やまおか・ゆうや)プロフィール>
1985年5月17日、高知県生まれ。高知高―順大―FC東京。小学校1年時にバレーを始める。小学校から高校まではアタッカーとしてプレーし、多くの全国大会を経験。高校2年時にはインターハイでベスト16入りを果たした。順天堂大に進学後、現在のポジションであるセッターに転向。大学3年時の東日本インカレでベストセッター賞を受賞した。大学卒業後、FC東京へ入団。2年目からレギュラーとしてプレー。速いトス回しで攻撃を組み立て、高いレシーブ力で守備での貢献も光る。身長176センチ、体重68キロ。背番号10。



(鈴木友多)
◎バックナンバーはこちらから