「木下は野球を見る眼がすごく優れていたんです」
 島田達二は木下拓哉をキャッチャーに指名した理由をこう明かした。だが、なぜ木下をキャッチャーにコンバートする必要があったのか。当時の高知高では、2年生と木下の同級生の2人がキャッチャーを務めていた。しかし秋季大会が終わると、同期のキャッチャーが休部状態になった。そのため、もう1人、キャッチャーをつくる必要性が出てきたのだ。そこで島田が指名したのが木下だった。では、「野球を見る眼」とはどういうことだったのか。
 理想だった“落ちない”キャッチャー

「試合中、『(相手選手が)このスイングをしたら、次はこうやって投げたらいい』ということを言っていました。ピッチャーをやっていた経験もあったと思いますが、普段からそういう言動がありましたので、バッターを見て配球ができるんじゃないかなと考えたんです。練習でバッティングキャッチャーをしている時のキャッチング技術も高かった」

 ただ、これまでピッチャーを本職としてきた木下にすれば、キャッチャーはいわば真逆のポジションといえる。本人に動揺はなかったのか。
「最初はちょっと嫌やなと思いました(笑)。ピッチャーからライトにコンバートして、守備の時にもバッティングのことを考えられるようになり、“野手ってこんなに楽しいんや”と感じていましたからね。その点、キャッチャーは守備の時に間違ってもバッティングのことは考えられない。でも、そこはチーム事情もあったので(苦笑)」

 木下は戸惑いながらも、指揮官からの依頼を引き受けた。その中で、彼が目指したのは、「自分がピッチャーの時に理想としていたキャッチャー」だった。
「ピッチャーとしてプレーしていた時、僕は低めの真っすぐが“落ちない”キャッチャーが好きでした。低めのボールを捕りに行くと、ミットをボールの上からかぶせるようにキャッチングする人が多い。そうすると、全然力がないボールに見えてしまうんです。うまいキャッチャーは、低めの球もミットにバーンと収めてくれる。それを見てピッチャーは『今日は伸びているな』と乗っていけるんです」

 冬が明けて練習試合のシーズンに入ると、木下はダブルヘッダーの1試合目をライト、2試合目をキャッチャーとして出場するようになった。本人は「公式戦でマスクをかぶるのは新チームになってからだろうな」と考えていたという。ところが、徐々にダブルヘッダーの1試合目から木下がキャッチャーとして出場する機会が増えていった。逆に先輩のキャッチャーは、ファーストの練習をするようになっていたのだ。
「もしかして、自分がキャッチャーとして夏の予選に出るのかな……」

 彼の予感は的中した。木下は高校野球選手権の高知県予選に正キャッチャーとして臨んだ。野手で唯一の2年生レギュラーであり、さらに4番という大役を任せられた。木下は全5試合に出場し、打率4割1分2厘、11打点の活躍を見せ、高知高の2年連続甲子園出場に貢献した。守りでも失策はゼロだった。「試合に出ている以上は経験のせいにはしたくはなかった」と語るとおり、持ち前の勝負強さを発揮して攻守に大きな働きを見せた。

 迎えた甲子園では、1回戦で広陵高校(広島)と対戦した。試合は4回表に広陵高に5点を先制された。相手ピッチャーの球速、バッターの打撃技術ともに、今までに味わったことがないほどレベルが高かった。高知高は6、7回に攻勢を仕掛けて同点に追いついたが、8回表に勝ち越しを許すと、そのまま5−8で敗れた。
「あっという間でしたね。雰囲気に飲まれていたというか……甲子園って、勝っている時は時間が進むのがかなり遅く感じるんですよ。『早く終われ」と。逆に、負けている時はすごく早い。広陵戦も自分たちの攻撃はすぐに終わっている感覚でした」

 チームは1回戦で甲子園を去ったものの、木下自身は打っては2安打3打点、守っては広陵の韋駄天・上本崇史(現広島)の盗塁を阻止する活躍を見せた。甲子園以降、取材を受ける機会が増えたという。しかし、彼に慢心は生まれなかった。むしろ、「甲子園では実力以上のものがたまたま出ただけ。注目されてからが勝負」と気を引き締めた。

 高校時代一番の財産

 甲子園が終わり、早速新チーム体制が始動したが、キャプテンはしばらくの間、決まらなかった。木下いわく「日替わりで主将の役割を回していた」という。だが、秋の大会が始まる前に地元の新聞を見ると、高知高のメンバー表で木下の名前の横にキャプテンであることを示す○印がついていた。これについて島田は「木下は周りがよく見えるし、やさしくてまじめな男。周囲から信頼されていた」と抜擢理由を明かした。キャプテンで、キャッチャーで4番。木下はまさにチームの支柱となった。

 木下擁する高知高は秋の県大会を制し、センバツへの出場権をかけた四国大会に駒を進めた。しかし、準々決勝で今治西に3−7で敗れ、センバツ出場は叶わなかった。オフシーズンは厳しいトレーニングに明け暮れた。その成果を春に示すはずだった。

 しかし、春季県大会決勝で高知高は、明徳義塾高校に1−7の完敗を喫した。攻撃が機能せず、守備では明徳打線に打ち込まれた。エラーも連発し、木下は「チームとしてガタが出てきた」と当時を振り返った。5月の四国大会では、初戦の寒川高校(香川)戦で初回に6点を先制しながら、6−7と逆転負け。木下が「春から夏の県大会が始まるまでの3カ月ぐらいは練習試合を含めても、内容のいい試合は1試合もなかった」と語るほど、チームは不振に陥っていた。

 だが、木下は危機感を募らせてはいたものの、不安に押し潰されることはなかったという。というのも、高知高はこれまでも春先に調子を崩すことが多かったからだ。それでも、チームは2年連続で甲子園出場を果たしてきた。2009年のチームもそれまでの不振がウソのように夏の県大会を勝ち進んだ。そして、決勝で春に大敗した明徳義塾と再び顔を合わせたのである。「正直、明徳に勝つのは難しいなと思っていました。でも、県大会を戦う中で得た手応えもあったので、自分たちが負けるイメージもなくなっていましたね」。木下は当時の心境をこう明かした。

 試合は3回表、明徳義塾が1点を先制した。だが、その裏に1死一、三塁の場面で明徳義塾のエース・石橋良太(現拓殖大学)がワイルドピッチ。高知高はラッキーなかたちで同点に追いついた。そして、5回表には木下の勝負を分けるビッグプレーが飛び出した。
 2死二塁の場面で迎えたバッターは石橋。打撃に定評があった石橋に対し、ベンチは敬遠を指示した。すると、4球目がボールとなり、敬遠が成立した後、木下はボールをピッチャーではなく、二塁へ投げた。「アウト!」。二塁塁審の判定が球場に響き渡った。木下は二塁ランナーがボールから目を離して帰塁が遅れた瞬間を見逃さなかったのだ。

「冷静に周りが見えているという、彼の真骨頂が出た場面でした。試合の流れも持ってくるビッグプレーでしたね」
 島田は興奮気味に振り返った。指揮官が語ったように、高知高は木下のファインプレーで流れを引き寄せた。その裏、連打で石橋を攻め立て、1死二、三塁から3番打者が逆転タイムリー。続く4番・木下も続いて3−1とリードを広げた。8回表に1点を返されたものの、結局、高知高が3年連続となる甲子園出場を決めた。

 09年8月、木下は自身2度目の甲子園の土を踏んだ。初戦の相手は如水館高校(石川)。3回を終えた時点で3点をリードされていた。ところが、試合は降雨ノーゲームに。翌日の再試合でも5−6とリードされていた5回表途中で雨天ノーゲームを宣告された。2度も続けて、高知高が天気に救われたかたちとなった。

 すると、3戦目は一転して高知高が如水館を圧倒した。2回までに3−0とリードを広げると、7回表には一挙5点を追加。9回表にも1点を挙げて、9−3の快勝を収めた。木下は初回に先制打を放ち、守っては相手打線を3点に抑える好リードで高知高の夏の甲子園30年ぶりの勝利に貢献した。続く常葉橘(静岡)戦には惜しくも6−7で敗れたが、木下たちは高知高野球部の歴史にその名を刻んだ。
「甲子園で校歌を歌えたことは嬉しかったですね。ただ、県大会で明徳に勝利した時のほうが嬉しかったかもしれません。苦しんできた中で、結果を出せた。最後の夏に県大会を勝ち抜いて甲子園に行けたことが、高校時代の一番の財産だと思っています」
 こう語る木下の表情は笑顔で溢れていた。

 プロに行くための大学進学

 2年連続甲子園で活躍した木下にはプロのスカウトからも熱い視線が注がれていた。だが、木下本人はプロに行くつもりはなかった。

「自分は夏の県大会とか甲子園とか、注目されるような試合でたまたま活躍できただけ。実力以上のものが出ているだけでした。高校からプロに行けるレベルではなかったんです」
 こう考えていた木下は、島田に「プロに行く気はあるのか?」と聞かれた際に、「大学に行きます」と返した。プロ野球選手を諦めたわけではない。彼は「大学卒業後、絶対にプロになる」と決意していた。

 そんな木下は関東の大学に進学することを検討していた。周囲から「関東の大学リーグの方がレベルが高い」と聞いていたからだ。彼のもとには東京六大学野球リーグの法政大学のほか、東都リーグや首都大学野球リーグに所属する大学からも推薦入学の打診が届いていた。その中で木下が選択したのは、は法大だった。

「法大には1学年上の高木(悠貴、高知高OB)さんがいました。あと法大と高知高のOBである二神(一人、現阪神)さんが兄と高知高で同級生だった関係で、二神さんにいろいろ聞きました。その中で練習環境など、法大は間違いないと言われたんです」
 
 木下はこう決断理由を明かした。その決断が間違いでなかったことは、高校在学中、早くも感じることになる。木下は夏の甲子園後、法大野球部への入部が内定した選手による練習会に参加した。そこには後にチームメートとなる西浦直亨(天理高校)らがいた。

「もう、みんなレベルが高くて、『こいつらと野球やったら楽しいんやろなぁ』と感じました。練習会の時点で、法大にして正解だったと思いましたね。家に帰ってからも、親に『法大にしてよかった』と何度も言ったのを覚えています(笑)」

 10年4月、木下は法大に入学し、大学野球という新たなステージへと足を踏み入れた。しかし、彼は入学してすぐに、先輩キャッチャーたちとの大きな差に気付かされることになる――。

(つづく)

木下拓哉(きのした・たくや)プロフィール>
1991年12月18日、高知県生まれ。4つ年上の兄の影響で野球を始め、小学2年で地元の野球少年団に入団。当時はピッチャーとしてプレーした。中高一貫教育の高知中学高等学校に進学。高校時代にピッチャーからライトへコンバートされ、高2の春からキャッチャーを務める。08年、09年と2年連続で夏の甲子園を経験。10年、法政大学に進学した。法大では11年春季リーグから代打で出場機会を得る。12年の秋季リーグはレギュラーとして法大7季ぶりの優勝に貢献し、ベストナインに選出された。強肩と巧みなインサイドワークが武器。一発を狙えるパンチ力も備える。身長183センチ、体重93キロ。右投右打。



(鈴木友多)
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