2012年7月、車椅子卓球・中出将男は眠れない夜を過ごしていた。その日、海の向こうではロンドンパラリンピックの代表選手の選出が行なわれていたのだ。ロンドンへの切符は20枚。当時の中出の世界ランキングは20位だった。
「選考結果は国際卓球連盟パラリンピック卓球委員会のHPに掲載されることになっていました。僕はもういてもたってもいられなくて、夜中の0時からずっとHPをチェックしていました。でも、少し経って気付いたんです。まだ現地は日付が替わっていないんだって。我ながらアホやなぁと思いましたよ(笑)」
 いつの間にか眠ってしまった中出が選考結果を知ったのは、翌日の夕方だった。結果を目にした中出は泣かずにはいられなかった――。

 中出は卓球人生を賭けて、ロンドン出場を目指していた。11年には仕事を辞め、練習に専念するほど、ロンドンへの思いは強かった。だが、目に飛び込んできたのは、あまりにも厳しい現実だった。選考結果のページには、中出の名前はあった。だが、それは代表者ではなく、落選した選手の欄だった。

 ランキングは確かにギリギリの20位に入っていた。それなのに、なぜ落選したのか。それは“ワイルドカード”というシステムだった。おそらく車椅子卓球の普及を考えてのことだろう。中出よりもランキングが下の選手に、出場権が与えられたのだ。
「20位だった時点で、わかってはいました。おそらくワイルドカードが使われるだろうから、自分が出る可能性は低いだろうなと。それでも、結果を見るまでは最後まで諦めずにいようと思ったんです」

 予測していたことだったが、やはりショックは大きかった。これまで自分を支えてくれた人たちのことが頭に浮かび、悔しさとともに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「こんなに苦しい思いをするのなら、もうパラリンピックを目指すのは辞めよう」
 中出は現役を引退し、指導者の道を歩もうと考えていた。

 MWCあってこその“今”

 そんな中出が、再びパラリンピックを目指すことを決意したのは、「マルハンワールドチャレンジャーズ」(MWC)への応募がきっかけだった。
「僕が所属する卓球クラブの人に、『こんなのがあるよ』と教えてもらったんです。内容を調べてみると、優勝すれば300万円の支援金をサポートしてもらえると。正直、パラリンピックを諦めようと思ったのは資金のこともあったからなんです。でも、MWCを知って、もう一度頑張ってみようと思えた。多分、何かのきっかけが欲しかったんだと思います。諦めた、と言いながら、心のどこかでは吹っ切れない自分がいましたから……」
 何かの拍子で、パラリンピックへの気持ちが再燃することは、中出自身、薄々気づいていたに違いない。MWCが、中出をアスリートへの道へと引き戻した。

 中出は書類選考の結果、100種目・657名の中から選抜された14名のファイナリストに選ばれた。そして最終オーディションで優勝こそならなかったものの、支援金50万円を獲得。その支援金は、今シーズンの海外遠征の費用に充てられている。そして、中出が得たものは支援金だけではなかったという。

「それまでは、自分のことしか考えていなかったんです。とにかく、パラリンピックに行くんだと。でも、今回MWCに応募したことで、『地域を大事にしなければいけない』という気持ちが芽生えました。というのも、地元にあるマルハンさんの店舗に結果を報告しに行ったりすると、僕の好きなから揚げを用意してくれたりして、温かく迎えてくれるんです。スポンサーって、お金だけじゃないんだなと。こうやって人と触れ合うことで、輪が広がって、応援してもらうことが大事なんだということがわかったんです。だから一番身近な地域との触れ合いを大切にしていこう、というふうに考えるようになりました」

 中出はそれまで地元から卓球教室や練習の講師を依頼されても、ほとんど断っていたという。自分の練習時間を削られることが嫌だったのだ。だが、今では都合がつく限り、依頼を受けている。練習時間が削られても、地域の人たちと触れ合う価値は十分にあると感じているからだ。
「みんな、パラリンピックに出場してほしいって応援してくれるんです。そういう声を聞くだけで、力になる。『よし、絶対に行ってやるぞ』と、これまで以上に練習も頑張れるんです」
 アスリートへの道へと引き戻し、そして自分を大きく変えてくれたMWCに、中出は感謝している。

 封印が解かれた8年ぶりの国際大会

 昨年はあと一歩のところでパラリンピック初出場を逃した中出だが、実は本来なら既にパラリンピックの舞台を経験していてもおかしくはなかった。1999年、世界ランキング14位だった中出は、翌年に控えていたシドニーパラリンピックに手が届く位置にいた。だが、日本代表の指揮官も兼ねていた当時所属していたクラブの監督に言われたひと言で、中出の気持ちはプツリと切れた。

「当時、僕は正社員として仕事をしていましたから、練習との両立は本当に大変でした。それでもパラリンピックに行きたい一心で努力していました。ところが、監督は『もっとノイローゼになるくらい卓球のことを考えろ』と。監督の言いたいことはわからなくもなかったんです。世界に勝つためには、それくらいやらないとダメだと言いたかったんでしょう。でも、僕とすれば、仕事をしてお金を稼がないと、海外の大会に行くことはできない。だから、できるだけ仕事に支障をきたすようなことはしたらあかんという気持ちで頑張っていた。だから、『ノイローゼになったら、仕事ができないやないか!』って思ってしまったんです」
 中出はそのままクラブを辞めると同時に、シドニーへの夢も捨て去ってしまった。それから8年、中出はパラリンピックへの思いを封印し続けることとなる。

「まずは日本で一番になってから、海外に行こう」
 99年の一件があった後、中出の目標は世界から国内へと切り替えられた。実は日本には、中出がどうしても勝てない相手がいた。岡紀彦だ。中出よりも一回り上の岡は、昨年までの25年間、全日本選手権でトップの座を守り続けた、まさに無敵の王者だった。
「岡さんには勝てんことには、世界に勝てるわけがない」
 だが、中出はいつも決勝で岡を相手に涙をのんだ。日本一まであと一歩と迫りながら、その一歩が中出にはあまりにも大きかった。

 国内の頂点に立てないまま、いつの間にか8年の月日が経とうとしていた。その間、中出は一度も海外には行かなかった。そして、パラリンピックへの思いも封印されたままとなっていたのである。一度決めたことを覆すには、相当の勇気と覚悟が要る。中出は、封印を解くタイミングを失ってしまっていたのかもしれない。

 ところが07年、ひょんなことでその封印は解かれた。思いがけず、国際大会への誘いを受けたことがきっかけだった。
「所属していたクラブの仲間が香港の大会に出場すると言うんです。もちろん、僕には関係ないと思っていました。そしたら、クラブの監督が『中出も一緒に出てみんか』と言って来たんです。『オマエは日本で2番目に強い選手なんやから、世界相手にどこまで通用するんか、一度見てみたいんや』と。迷いましたが、まぁ久し振りに出てみようかなと軽い気持ちで出場を決めました」

 8年ぶりの国際大会。中出はとにかく緊張したという。結果は予選敗退。だが、その時中出の中で何かが動き始めていた。
「予選で3試合やったのですが、2勝1敗で3人並んだんです。結局セット数で僕は決勝トーナメントには行けなかったのですが、予選で当時の世界3位の選手に勝っていたんです。海外は8年ぶりでしたから、世界には通用せんやろうと思っていた。だから予想外の結果に自分自身が一番驚きました」

 全ての試合を終え、ホテルの部屋に帰ってからも、中出は興奮した自分を抑えることができなかった。
「もしかしたらオレ、いけるんちゃうか!? 頑張ればパラリンピックも夢じゃないかもしれない……」
 中出の気持ちにスイッチが入った。ようやく8年間の封印が解かれた瞬間だった。

 自信と課題を得た銀メダリストとの一戦

 今年の年明け、中出はブログにこう記している。
<パラリンピック出場をめざし、この1年間がむしゃらに戦っていきます>
 16年リオデジャネイロパラリンピックまで、あと3年。確かに時間はあるようでないのだろうが、それにしてもと思うほどの気合いの入れようが文章から見てとれる。だが、「がむしゃらに」なるのは当然だった。実は、リオへのポイントレースが、今シーズンからスタートしているのだ。

 今シーズン、中出は海外は3大会に出場する計画をたてた。タイオープン、アジア大会、USオープンだ。8月に行なわれたタイオープンで、中出はいきなり結果を出した。個人戦銅メダル、団体戦銀メダルを獲得したのだ。最も印象に残っているのは、手応えと課題の両方を得た個人戦の準決勝だ。相手はロンドンの銅メダリストだった。

 試合は接戦となり、セットカウント2−2で迎えた最終セット、5−3と前半は中出がリードしていた。コートチェンジをする間、中出は「よし、いける」と考えていた。だが、これが結果的には中出に隙をつくった。コートチェンジ後、流れが一変した。7連続ポイントを奪われ、あっという間に主導権は相手に渡ってしまったのである。

「5−3でリードしていた時に、勝ちを意識してしまった。そしたら、動きがかたくなったんです。連取され出したら、『なんとかせなあかん』と気持ちばかり焦って、集中力がなくなってしまいました。どんな時も、冷静にプレーしならなければならない。それが今の一番の課題です」
 だが、パラリンピック銅メダリストを、ここまで追い詰めたことに対しては大きな自信にもなった。

 10月に行なわれたアジア大会は、優勝すれば来年の世界選手権の出場権が得られる重要な大会だった。だが、中出は予選敗退に終わった。それでも、まだ可能性はある。来年1月までに世界ランキング16位以内に入れば、出場できるのだ。現在、中出は24位。決して容易ではないが、可能性がある限り、中出は諦めない。

 自ら“卓球バカ”と言う中出。アルバイトで生活費を稼ぎ、なんとか活動費をねん出している今の生活は決して楽ではないはずだ。だが、彼はやはり卓球が好きなのである。それはインタビュー後の別れ際に見せた言葉と表情にもはっきりと表れていた。
―― 明日(土曜日)も練習ですか?
「はい、もちろんです! 明日は土曜日でしょう。だから、朝から晩まで思う存分、仲間たちと練習ができるんです。もう今から待ち遠しくて仕方ないんですよ」
 中出にとって、リオはシドニー、ロンドンに続いてパラリンピック3度目の挑戦だ。果たして3年後、“3度目の正直”となるのか。リオへの戦いは、これからが正念場である。

(おわり)


中出将男(なかで・まさお)
1976年1月4日、京都府生まれ。小学4年から卓球を始め、高校まで卓球部に所属。高校卒業後、トヨタ自動車工場に勤務するも、入社1年目の夏にバイク事故で車椅子生活を余儀なくされる。入院中に車椅子卓球の存在を知り、退院後、卓球を再開。チームに所属し、国内外の大会に出場するようになる。昨年のロンドンパラリンピックは、あと一歩のところで逃すも、現在は16年リオデジャネイロを目指している。今年8月のタイオープンでは個人戦銅メダル、団体戦銀メダルを獲得。現在、世界ランキングは24位。

『第3回マルハンワールドチャレンジャーズ』公開オーディションを経て、5名のWorld Challengers決定!
>>オーディション(8月27日、ウェスティンホテル東京)のレポートはこちら


※このコーナーは、2011年より開催されている、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(文/斎藤寿子)
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