「私も競輪やりたいなぁ」。石井寛子は高校で自転車競技を始めた頃、漠然と競輪選手に憧れていた。ただ当時、プロがあったのは男子だけだった。それまでは小中学校と陸上部に在籍しており、12年後、まさか自分がプロの競輪選手として活躍しているとは、この時はまだ知る由もなかった――。


 石井の競技人生は地元・埼玉の杉戸農業高校からスタートした。学校に自転車競技部があることを知った石井は、母と姉に相談した。すると、2人は入部を勧めたという。彼女がサイクリングに行くなど自転車に乗ることが好きだったことを知っていたからだ。石井は入部を決めた。ここから現在へと続く競技人生のペダルを漕ぎ始めたのである。

 当時、杉戸農業で自転車競技部の顧問をしていたのは福田俊彦だ。彼に競技歴はなかったが、授業で自分の愛車を披露するほどの自転車愛好家だった。石井は福田から厳しい指導を受けたことはなく、先輩たちの見よう見まねで練習していた。どちらかといえば遊びの延長に近い部活だった。だが、彼女は強制されることなく、のびのびとやれたことでどんどん競技に惹かれていった。

 杉戸農業に女子部員はほとんどいなかったため、練習は男子の後ろについていくようなかたちだった。自分より高いレベルの選手とトレーニングを積むことで、それが石井の成長を助けた。「素人同然でスタートしたので、最初は“悲惨”なものでした。でも、そこからちょっとずつタイムが上がっていったんです。練習がきついこともありましたけど、面白かったですね」。彼女は努力すればするほど結果が出ることで、自転車競技に夢中になっていった。

 全国的にも女子の競技者が決して多いわけではない。そのため、大会にはすぐに出場することができた。それも、石井にとっては魅力のひとつだった。福田に連れられ、石井ら部員たちは全国各地を回った。高校生のみの大会だけではなく、オープン大会にも出場した。強い選手と戦うことも彼女の大きな刺激となっていた。

 競技生活を「3年間じゃ足りない」と思っていた石井は当然、大学進学後も自転車に乗り続けようと考えていた。高校3年時にジュニアオリンピックカップで2位に入ったこともあり、スポーツ推薦というかたちで明治大学に入学した。「ただガムシャラにやっていた」という石井は、3年時には腰とヒザを故障してしまう。満足のいく練習ができず、次第に成績は下降していった。「この頃、タイムが悪くてショックを受けました。そんな自分を許せなかった。恥ずかしくて、恥ずかしくて……」。ここで石井の負けず嫌いに火がつき、“これではダメだ”と猛練習した。その努力は報われ、4年時にはアジアカップやインカレ2冠など多くのタイトルを獲得した。いつも先輩や男子選手の背中を追いかけるばかりだった彼女は、アマチュアでトップクラスの選手になっていた。当時、女子のプロはまだ存在しておらず、女子選手にとっての最大の目標は五輪にあった。石井もいつしか五輪出場を目指すようになっていた。

 あと一歩まで迫った五輪への道

 2008年に大学を卒業した石井は就職しなかった。五輪を目指すため、競技に専念したかったのだ。石井の決意に両親も金銭面でもサポートするなど、後押ししてくれた。その年の夏には北京五輪が開催された。中国の地で自転車のトラック競技女子日本代表として出場したのは同い年の佃咲江と、2歳下の和田見里美だった。彼女たちとは対戦経験があり、勝ったことがある選手たちだった。“頑張れば私も行ける”。そう思えた石井の視界に五輪という最高峰の舞台がくっきりと見え始めていた。

 競輪の統括団体であるJKAがガールズケイリンのエキシビションレースを開催したのはそんな時だった。この年の7月から3年間で4シリーズ行われ、石井は全てのシリーズでMVPに輝いた。「すごく面白かった。競技だけでなく、お客さんの前で走れることも嬉しかったです」。レースの他、競輪場を盛り上げるためのイベントにも参加するなど、憧れていたプロ競輪選手を“疑似体験”することができた。

 更なる追い風が吹いたのは09年11月だった。1964年に廃止された女子競輪が、3年後の12年に復活することが決まったのだ。競技を始めた当初から、競輪選手に憧れた石井にとっては願ってもないことだった。だがプロになるためには、過去の実績を問わず、11年から約1年間、全寮制の日本競輪学校に通わなければならなかった。ロンドンを狙う石井にとっては、代表選考が大詰めとなる時期である。そのタイミングで競技だけに専念できないのはリスクが高いと判断した。彼女は五輪を最優先するかたちで、苦渋の思いで1期生での入学を見送った。

 石井は11年、12年と日本自転車競技連盟(JCF)の強化指定選手に選ばれ、日本代表として国際大会にも出場した。そこで五輪出場枠を得るためのポイント獲得に貢献。トラック競技で日本女子はスプリントの1枠を手にした。そして石井は4月の代表最終選考会に命運をかけて臨んだ。しかし結果は200メートルのタイムトライアルで前田佳代乃に次ぐ2位に終わり、ロンドンへと続く道は絶たれた。だが、すぐに“このままでは終われない”と闘志を燃やし、その場でリオデジャネイロ五輪を目指すことを決めた。

“自分は強くない”ゆえのこだわり

 とはいえ、リオまでは4年ある。そこで石井は、一度は見送った競輪選手の道へ挑戦を決意した。13年1月、彼女は競輪学校の入学試験に合格し、2期生となった。

 石井は在学中、静岡県にある学校でハードなトレーニングを積み、代表に呼ばれれば国内外を飛び回った。プロと五輪を目指すタフな二重生活。それをつらいとは思わなかった。「逆に代表の活動が気分転換になっていたと思うんです。それがなかったら潰れていたかもしれない。両方できることが私のモチベーションになっていました。それに、代表から帰ってレースをすると、“強いね。どうしたの?”と他の選手から聞かれたこともありました。海外に行って経験値が上がり、すごく成長できた1年間だったと思います」と競輪学校時代を振り返った。

 学校にはソフトボール、トライアスロン、陸上競技、テニス……さまざまな競技からの転向組もプロを目指して入ってきていた。自転車競技を10年以上やってきた石井は、アマチュア時代から実績は抜けており、いわば エリート。“満を持して入ってきた”彼女に対する周囲の注目度は高く、“勝って当たり前”と思われても仕方がない状況下にあった。だが入学直後のタイムトライアルなどで、トライアスロン出身で自分よりも競技経験のはるかに浅い梶田舞に敗れた。このことが、石井にとってはプラスとなった。
「強い方がたくさんいる中で、みんなに勝てるようチャレンジャー精神で1年間過ごしてきました。自分を強いと思ったこともなく“どうすれば勝てるか”ということをずっと考えながら練習していました」と、決して驕ることはなく真摯に勝つことに向き合った。

 そんな石井の在校時の印象を競輪学校の滝沢正光校長は、こう語る。
「ある程度、完成された選手だなと。指導したこともすぐに理解していたので、スムーズでしたね。ただ学校では勝つことよりも勝ち方を重視して指導するのですが、彼女の中では勝ち方よりも勝つことが最優先というか、そのこだわりは尋常じゃなかったですね」
“1位じゃなきゃ楽しくない”という石井のこだわりは数字となって如実に表れた。石井は校内競走で57戦中1着は52回、2着は2回。着外(4位以下)はわずかに3回だった。
「在校1位(1年間の総合成績)と卒業記念で優勝することを目指していて、どちらも絶対に獲りたいと思っていました」
 卒業記念レースでは4戦すべてで1着に入り、完全優勝を果たした。女子での在校1位&卒業記念完全制覇は初の快挙だった。石井は学校生活を最高のかたちで締めくくり、晴れてプロへの道を進むこととなった。

 まだまだ遠い世界との距離

 プロに入り1年目で34勝し、優勝も12回した。最高勝率(89.79%)を誇り、MVPを獲得。日本では圧倒的な強さを見せている彼女だが、そこで満足するつもりはない。見据える先には、世界があるからだ。昨年9月の立川(東京)ではデビューから8場所続けていた優勝を止められた。その相手は短期登録で来ていたレベッカ・ジェームズ(英国)だった。ジェームズは石井が12年のW杯で銀メダルを獲得した時、頂点に立った英国チームのひとり。同年の世界選手権でケイリンとスプリントの2冠を達成していた。

 立川のレースでは、ラスト1周を切ったところのバックストレートでジェームズが仕掛けた。前を走っていた石井も合わせてペースを上げたが、第3コーナーで先行を許すと、そのままグングン離された。「ダッシュ力から何から全てが上でした」と完敗を認めた石井。それだけ力の差は明白だった。

 石井は、W杯で表彰台に上ったのは一度きり。それ以来、国際大会では目覚ましい結果は残していない。世界の強豪たちとの距離はまだまだ遠い。勝つ術は知っていても、それを実行できる脚力はまだない。「今は力でねじ伏せているのではなく、技術でねじふせている」とは師匠である競輪選手の朝倉佳弘の彼女への評価だ。ガールズケイリンでは巧さで勝てても世界で勝つための強さが足りていないという。現役時代は数々のタイトルを獲得した名選手だった滝沢校長も同じ課題を指摘する。「基礎体力的なものをもう少しつけていけば、もっと上を目指せると思います。もう少しポテンシャルを高いところに引き上げていって欲しいですね。今でも十分、国内では通用するのですが、もう1ランク、2ランクアップすれば世界でも活躍できる選手になっていくんじゃないかと思いますね」

 今年に入って、石井は国内でも苦戦を強いられている。初戦の小倉(福岡)では3連勝し、優勝を収めたものの、伊東(静岡)では3着、1着、4着。雪辱を狙っていた2月の前橋は大雪のため開催が中止になった。また2月は日本代表入りも逃しており、それに合わせて日程を組んでいたため、レースに出られない日々が1カ月以上も続いた。

 迎えた3月の名古屋競輪場でのガールズケイリンコレクション(GKC)名古屋ステージ。得点上位が出場できる大会は中村由香里、加瀬加奈子ら昨年末のガールズケイリングランプリ(ガールズGP)と同じ顔合わせとなった。実戦から離れていた石井にとっては不安を抱えながらのレースだったが、強豪たちを相手に最後の直線で差し切る鮮やかな逆転勝ちを見せた。ビッグレースを制し、このまま勢いに乗るかと思われた。だが、その後の平塚(神奈川)、いわき平(福島)では優勝できなかった。今シーズンは、昨年ほどの圧倒的な成績を残せず、もがいている。

 石井のもうひとつの目標は、2年後のリオ五輪。代表争いは既にスタートしている。競輪選手としての頂点を狙いつつ、五輪という大舞台を目指す。2つの大きな夢を追いかける彼女が目指す選手像とは――。
「“石井寛子が走るから競輪場行こうかな”とお客さんに思ってもらえる選手になりたいです。そして、ガールズケイリンを盛り上げていきたいですね」

 ずば抜けた脚力を持つわけではない彼女がアピールする術は勝つことである。
「そうじゃないと言う人はたくさんいますけど、1着にならないとまず目立たない。2着以下で目立つとなると、先行で華のある走り方をしないといけない。ただ私はそれができるほどの脚力がないんです」
 あくまでも勝ちにこだわる石井寛子。そして“強さ”を追い求め、今日もペダルを漕ぎ続ける。

(おわり)
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石井寛子(いしい・ひろこ)プロフィール>
1986年1月9日、埼玉県生まれ。小中学校時代は陸上部。杉戸農業高に入学後、自転車競技を始める。明治大学4年時にはアジアカップやインカレ2冠など多くのタイトルを獲得した。卒業後、11年には全日本選手権でチームスプリントとケイリンで2冠を達成。12年、競輪学校に入学。同年10月のW杯、チームスプリントで日本女子初の銀メダルを獲得した。競輪学校では57戦52勝と在校成績1位。卒業記念では全勝し、完全優勝を果たした。13年5月にプロデビュー。9月のガールズケイリンコレクション(GKC)京王閣ステージを制覇するなど、デビューから12連勝を達成した。同年は年間最多タイ優勝回数(12)に加え、38戦34勝で最高勝率(89.79%)を誇るなど3部門でトップの成績を収めた。ガールズケイリンの年間最優秀選手賞に選出された。今年3月にはGKC名古屋ステージを制した。得意な戦法は捲り追い込み。身長160センチ。

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(文・写真/杉浦泰介)

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