2014年のJ2リーグ、湘南ベルマーレの勢いが止まらない。開幕から13連勝を飾り、1年でのJ1復帰へ邁進している。その中心としてチームを支えているのが、DFの遠藤航だ。プロ5年目の21歳はここまでフルタイム出場を続け、4ゴール。第11節の水戸ホーリーホック戦ではJ1、J2通算100試合出場を達成した。遠藤は2016年リオデジャネイロ五輪を目指すU−21日本代表でもリーダー的存在として期待されている。同年代の日本人選手の中で、屈指の実力と経験を誇る遠藤だが、現在のステージに立つまでには、様々な巡りあわせがあった。
 天性の守備センス

 小学1年の時にサッカーを始めた遠藤は中学校では部活に入らず、クラブチームでプレーしたいと考えていた。プロになるために、より近い位置でトップレベルを感じられるJクラブのジュニアユースに入りたかったのだ。だが、彼は受験したJクラブのジュニアユースには受からなかった。受かったのは2つとも町クラブ。それでも遠藤はそのクラブのどちらかに入団しようと考えていた。そんな時、所属していたチームのコーチから、「南戸塚中に優秀な指導者がいるから、部活で続けるのも考えてみたらどうだ」と言われた。神奈川県のトレセンでコーチも務めていた大野武(現浜中学校)だった。

 コーチの助言を受けて、遠藤は部活でのプレーを選んだ。
「直感で“南戸塚中でプレーしよう”と。小学校時代のコーチに教えてもらっていなかったら、町クラブに入っていた。今振り返ると、いい選択だったと思いますね」
 大野こそが、現在の主戦場であるセンターバックにコンバートし、遠藤の運命を大きく変えた人物だったのだ。

 当時、遠藤はFWやトップ下など、攻撃的なポジションでプレーしていた。味方にラストパスを供給したり、時には自ら仕掛けてゴールを奪うスタイルだった。中学1年の頃から出場機会をつかんだ遠藤だが、大野によると「飛び抜けてうまい選手ではなかった」という。そんななか、大野は遠藤が中学2年の時、センターバックへのコンバートを提案した。なぜ、大野は遠藤を攻撃的なポジションから守備的な位置に据えようと考えたのか。

「チームの守備が不安定だったからです。当時のチームは中学からサッカーを始めた選手もいて、選手層が決して厚くはなかった。それで、チームの中で経験も技術もある航に“後ろでやってみないか?”と。私は後方からでもゲームはつくれるという考えを持っていました。航はパスの精度が高く、長いボールも蹴ることができる。ですから、彼をCBに据えれば、守りを安定させながら攻撃も機能させられると考えたんです。航もチーム事情を理解して、コンバートを受け入れてくれました」

 果たして、大野の読みは的中した。最終ラインの遠藤が決定的なパスを前線に送り、得点するというパターンは十分に機能した。遠藤も「意外とおもしろいな」とCBでのプレーに楽しさを見出していった。現在の遠藤の特徴である後方からのロングフィード、くさびのパスでチャンスを演出するスタイルは、中学時代にかたちづくられたものだったのだ。

 だが、大野にとって、想像以上のこともあった。それは遠藤のCBとしての素質の高さである。
「彼はボールを奪う感覚、そして相手との距離感が絶妙で、天性のものがありました。たとえばスピードのある選手に距離を保ちながら対応し、1対1で抜かさせない。チームとしてはやられても、“航のところは大丈夫だな”と安心して見ていられました。また、ヘディングの技術もかなり高かったですね」

 予測、対人守備の対応力、空中戦の強さ……どれもCBには欠かせない能力だ。その意味で、遠藤がCBにコンバートされたのは、もはや必然だったのかもしれない。

 Jクラブから受けたオファー

 個人的にはCBとしてのセンスの高さを垣間見せていた遠藤だが、チームとしての結果は思うようにはついてこなかった。3年間での成績は「1度、県大会でベスト8に入ったくらい」と目立つものはなく、選抜経験も横浜市で選ばれるのがやっとという状況だった。

 そんな無名の中学生を見いだしたのが、現在、湘南で監督を務めている貴裁(チョウ・キジェ、当時湘南U−18監督)だ。はスカウティングで南戸塚中のGKに注目していた。そのGKが湘南U−18の練習に参加する際、遠藤ともう1人のフィールドプレーヤーも同行することになった。遠藤にとって、下部組織とはいえ、Jクラブのレベルに触れられる貴重な機会。高いモチベーションを持って練習に参加した。しかし、ひとつ上のカテゴリーのレベルは想像以上に高かった。遠藤は「自分の今の力を100%出してもまだ通用しない」とその差を痛感した。だが、練習後にからかけられた言葉は意外なものだった。

「また来てくれよ」
 は遠藤にも興味を抱いたのだ。大野もから「(遠藤は)相手に対して瞬間的に的確な距離をとって対応できる」と言われたという。遠藤は次も、その次の機会にも練習に招待され、ついに中学3年の夏、湘南U−18からオファーを受けた。に「進路の第一希望として考えてくれているんだよな?」と言われたのだ。高校サッカーの強豪校を受験することも考えていたが、Jクラブからのオファーを断る気はなかった。遠藤は湘南U−18へ入団することを決めた。

 中学で大野に出会わなければ、そしての目に留まらなければ、現在の遠藤航は存在していなかったかもしれない。彼はいい巡り合わせのなかにいた。
「大野さん、さん、もちろん、これまで関わってくれた方々も含めて、僕は巡りあわせに恵まれていると思います」
 そう噛みしめるように語る遠藤。湘南U−18に入団してからは、飛ぶ鳥を落とす勢いでステップアップを果たしていくことになる。

 掴み取ったトップ昇格

 高校2年の時に出場した09年国民体育大会では、神奈川県少年選抜のキャプテンとして、優勝に貢献。同年にはU−16日本代表に選出され、世代別代表ながら、日の丸を背負うまでになった。また、トップチームの練習に参加し始めたのもこの頃だった。当初はスピード、運動量など、ユースとトップのレベルの違いに驚いた。中学3年で初めて湘南U−18の練習に参加した時の感覚に似ていたという。しかし、遠藤は手応えも感じていた。
「自分の良さも少しは出せました。“今のままでは全然ダメだな”とは思いましたけど、“もっと、自分は成長できる”という確信も得ましたね」
(写真:©SHONAN BELLMARE)

 遠藤のポテンシャルを、首脳陣も見逃さなかった。10年、彼は高校3年生ながら2種登録【第2種(U−18)チームに所属しながら、Jリーグの公式戦に出場できる制度】され、トップの練習のみならず、試合にも帯同するようになった。U−19日本代表にも飛び級で選出されるなど、彼の評価は高まっていった。そして同年6月5日、遠藤はヤマザキナビスコカップのモンテディオ山形戦でプロデビューを果たした。

 早くも憧れの舞台に立った遠藤だったが、プロの世界は甘くなかった。スタメンで出場したものの、「自分の良さを全く出せなかった」という内容に終始した。前半のみで交代を命じられ、苦い思い出になった。だが、遠藤は下を向かなかった。
「サッカーを続けていけば、どこかで壁にぶつかる。大事なのは壁を乗り越えるためにどうするか。これからもこういう経験の繰り返しなのかなという気がするんです」

 プロデビューから2カ月後の8月12日、翌シーズンに遠藤がトップへ昇格することがクラブから発表された。遠藤は今後も湘南に戦力として必要とされたのだ。苦いデビュー戦後も前を向いて歩み続けたからこそ、彼はトップ昇格というチャンスを掴み取れたのだろう。

 10年シーズン、遠藤はJ1リーグ戦6試合に出場してプロ初ゴールを決めるなど、実力の高さを証明した。さらに翌シーズン以降は、湘南、そして同世代を代表する選手として、その名を轟かせることになる。

<遠藤航(えんどう・わたる)>
1993年2月9日、神奈川県生まれ。南戸塚SC―南戸塚中―湘南U−18―湘南。ポジションはDF。南戸塚中時代に前線からセンターバックへコンバートされる。中学2年時に湘南U−18の練習に参加し、高校から所属。10年には2種登録でトップチームに登録され、プロデビューを果たした。翌年、トップへ昇格し、J2リーグ戦34試合に出場。12年シーズンは副キャプテンに抜擢され、7ゴールを挙げる活躍でJ1昇格に貢献。13年シーズンは負傷で戦列を離れる期間が長かったが、17試合に出場した。今季はここまでフルタイム出場を続けている。各世代別代表にも選出され、U−21代表ではリオ五輪出場を目指す。的確なポジショニング、高いキック制度、空中戦の強さ、得点力もある。身長178センチ、75キロ。J1通算23試合4得点、J2通算78試合12得点。背番号3。

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(文・写真/鈴木友多)

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