「ちょっと観に行ってみようか」――父・豊のこの言葉が、有井祐人の野球人生の始まりだった。子どもの頃、有井は週末になると、父親と一緒によく港に釣りに出かけた。「小さいうちに、自然を学ばせたかった」という気持ちが、豊にはあった。その2人が釣りをしていたすぐ隣のグラウンドでは、リトルリーグの練習が行なわれていた。「カキーン」という金属バットの音を聞いては、豊はソフトボールをやっていた学生時代を思い出していた。そんなある日のこと、有井が小学3年の時だ。豊が練習を見学に行こうと言い出した。
「その日は魚も釣れないし、ちょっと隣のグラウンドを観に行ってから、帰ろうかなと思ったんです」
 まさか、このひと言が親子の人生を大きく変えることになろうとは、知る由もなかった。
 指導者と選手との関係

 有井親子がグラウンドに行くと、選手の父兄が駆け寄ってきた。「ぜひ、チームに入ってください!」。熱烈な勧誘を受け、有井はリトルリーグに入ることになった。翌週から息子の送り迎えをするのが、父・豊の週末となった。そんなある日のこと。いつものように迎えに行くと、コーチ陣たちが打ち合わせをしていた。傍らでは子どもたちが時間をもてあましていた。

 そこで豊は、コーチ陣の了承を得て、子どもたちにノックをし始めた。本人としては、「時間つぶしに」という軽い気持ちでやっただけのことだった。ところが、その様子を見ていたコーチ陣から「次回から、ぜひ入ってください」という打診を受けたのだ。だが、豊は丁重に断ったという。自分がやってきたのはソフトボール。子どもたちに野球を教えることなど、できないと思っていたからだ。

 だが翌週、息子を送り届けるためにグラウンドに行くと、突然、総監督から新体制が発表され、コーチに任命されたのだという。
「私は、『できません』とお断りしたんです。でも、その時総監督に言われたのは『野球もソフトボールも精神は同じ。技術的なことは中学校に入ってからでいい。とにかく子どもたちが野球を好きになるようにしてほしい』ということ。それならば、と引き受けることにしました」

 その日から、有井親子は毎週末、指導者と選手という立場となった。豊は、他の父兄の目もあることから、自分の息子をひいきしないように努めた。それは朝、グラウンドに向かう車中から「お父さん」とは呼ばせなかったほどの徹底ぶりだった。グラウンドではなるべく息子には声をかけないようにし、何かあれば、誰よりも厳しく叱り飛ばした。

「あれは、祐人が4、5年生の時だったと思います。その頃はまだいろいろなポジションをさせられていて、セカンドやサードになると、嬉しそうにしていました。ところが、ファーストになった途端、ほとんど捕るだけのポジションはつまらないと思ったのでしょう、少しふてくされた態度をとったんです。それで私は怒りました。『出られない子もいる中で、使ってもらえるだけ、ありがたいと思え! そんなに嫌なら、辞めなさい。どうする? 辞めるのか? 続けるのか?』と。そしたら、祐人は『やります』とだけ答えましたね」

 あまりの厳しさに、当時コーチをしていた二宮惠信(現松山城西ボーイズ総監督)にこう言われたことがあったという。
「祐人くんもあれだけ一生懸命にやっているんだから、お父さんが見せしめのようにして叱り飛ばしてはいけませんよ」
 父・豊の心境も複雑だった。
「もっと普通の親子の関係でいたいなという気持ちはずっとありました。でも、私が指導者となってからは、なかなかそうはいかなかった。祐人も、いろいろと言いたいことはあったと思いますが、黙って耐えてくれていましたね」

 誓約を守り、成績トップへ

 有井は中学でボーイズリーグに入ると、練習は週5日となった。練習で疲れているうえに、塾にも通っていた有井は、夜になるとすぐに眠くなることがしばしばだったという。父親としても、「寝たければ寝ればいい」という気持ちはあったものの、進学校に通っていたこともあり、そういうわけにはいかなかった。そこで、ある誓約を交わした。「10位以内の成績」と「エースで4番」だ。

「入学して最初の試験で、祐人は10位以内に入ったんです。だから、野球を続けたいのなら、その成績を維持しなさいと言いました。トップ10から外れたら、野球は辞めさせる、と約束したんです。そして、野球ではエースで4番になりなさい、と」
 父・豊が一番嫌うのは、手を抜くことだ。誓約には、勉強も野球も精一杯頑張りなさい、というメッセージが込められていた。そして、その目標設定も「頑張れば、手の届く」と踏んでのものだった。決して、無理難題を押し付けたわけではない。

 中学3年間、有井は1度だけトップ10から外れたことがあった。父親との約束は、担任も知っていたという。その担任の話によれば、当然だが、有井はかなりの落ち込みようだったというのだ。それを聞いて、父・豊は息子にこう告げた。
「もう一度だけ、チャンスをやるから頑張りなさい。しかし今度は5位以内だぞ」

 すると、次の試験で有井は5位以内に入ってみせた。さらに豊が目標設定を「3位以内」に引き上げると、有井はやはりトップ3に入ったという。そして、中学3年最後の試験では、とうとう学年でトップに立った。これには、さすがに父親も驚きを隠せなかった。
「いや、もうビックリしましたね。正直、誓約とは言っても、本当に野球を辞めさせる気持ちはなかったんです。でも、一度トップに立ったら、それが快感になって、やる気が芽生えるんじゃないかなと」

 もちろん息子には、高校でも野球を続けて欲しいと願っていた。だが、それはかなわなかった。時折、豊が「大学に行ったら、また野球をやってくれよ」と言うと、「いや、やらないよ」とそっけない答えが返ってきたという。決して有井は両親には「大学で野球をやる」と言わなかった。
「まともに言ったら、反対されると思ったんじゃないでしょうか(笑)」
 その後、東京大学に合格し、野球部に入ると聞いて、父・豊が喜んだことは言うまでもない――。

有井祐人(ありい・ゆうと)
1992年10月23日、愛媛県生まれ。小学3年から、えひめリトルリーグに入り、野球を始める、新田青雲中学時代は松山ファイターボーイズで野球を続け、学校では陸上部に所属。新田青雲高校ではサッカー部に入る。2011年、目標だった東京大学野球部に入部。当初は投手としてレギュラーを目指したが、同年秋季リーグ後に外野手に転向。翌年からベンチ入りし、3年春には4番に抜擢されるなど主力として活躍。今年は主将に就任し、10年秋以来となるリーグ戦白星を目指している。175センチ、79キロ。右投右打。

(文・写真/斎藤寿子)




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