幼い頃から、南野亜里沙の周りにはサッカーがあった。彼女はサッカーを始めたきっかけを「父の影響」と語る。南野の父・敬二は、長く社会人チームでプレーしていた。その父の練習や試合に、彼女はいつもついていった。父・敬二は「生後3カ月くらいから、よく連れて行っていましたね。私のサッカー仲間にもよく遊んでもらっていました」と当時を振り返った。小学校入学後、父親に「チームに入ってサッカーをやりたいか?」と聞かれ、「やりたい!」と答えたのは必然だったといえるだろう。南野は父親の知人のいる女子クラブチーム・板野プリマヴェーラに入団し、本格的にサッカーを始めることになった。
 父に示した成長の証

「小さい頃からドリブルばかりしていました」
 南野がこう語ったように、今も昔も、自分から積極的にドリブルで仕掛けていくのが彼女のスタイルだ。そんな南野にドリブルの魅力を教えたのが、父・敬二である。彼は「スピードに乗って、自由奔放に仕掛けるタイプ」のドリブラーだった。そんな父のプレーを見て育った南野は、「ずっと尊敬していた」という父と同じドリブラーを志したのだ。

「亜里沙には基本技術以外は、細かくサッカーの手ほどきはしなかった」という父・敬二も、ことドリブルに関しては、アドバイスを惜しまなかった。そのひとつが「練習する時は、相手がいることを想像しながらドリブルしろ」だった。コーンやマーカーでコースをつくって行うドリブル練習だけではなく、グラウンドで自由にドリブルすることも娘に課した。ドリブラーには細かいボールタッチのみならず、ドリブルのルートやフェイントなどを考える創造力も求められる。敬二は、自由にドリブルさせることでそうした創造力を養わせたかったのだろう。

 ただ、敬二は娘がドリブル練習に励む姿を「あまり見たことがなかった」という。
「私のいないところで、練習していたんでしょう」
 父親の予想通り、南野は影で努力を重ね、着実にレベルアップしていた。試合では細かいボールタッチで奪いに来る相手をかわし、鋭いターンでその選手を置き去りにする。スピードはなくとも、技術の高さやスムーズな体重移動によって、南野は立ちはだかる相手を翻弄していた。また、自分に厳しいマークがついている時は、無理にボールを保持せず、周りの味方を使うという柔軟さも兼ね備えていた。

 そして、父・敬二が娘の成長を強く感じたのは、彼女が小学5年の時だ。南野は徳島選抜として全国大会に出場し、準優勝した。父親の印象に残っているのは、南野がゴールを挙げてチームの決勝進出に貢献した沖縄選抜との準決勝だ。
「ゴールシーンは今でも覚えています。亜里沙が中盤からドリブルでボールを運び、左サイドの選手にパスを出した。パスの後にゴール前へ入っていき、上がってきたクロスを押し込んだんです。ただそれ以上に私が驚いたのは、亜里沙が体が大きく、身体能力も高い沖縄の選手をドリブルで切り崩せていたこと。“うまなってきとるな”と思いましたね」
 父親に憧れてドリブラーを志した少女は、着実に成長の階段を上っていた。

 大きかったトップとの実力差

 南野は、小学校を卒業するにあたり、父親と相談して板野プリマヴェーラを退団することを決めた。同クラブは中学年代以降からは社会人までが同じカテゴリーで活動する。大人とプレーできることは経験上でプラスになるが、父・敬二はそのデメリットも考えていた。
「各カテゴリーで指導内容は違います。社会人と同じカテゴリーでプレーしていると、もしかしたら中学や高校で学ぶべきことを学べない可能性もありました。ですから、中学、高校と順序を経て育っていってほしいと考えたんです」
 プリマヴェーラ退団後、南野は男子クラブチームのプルミエール徳島に入団した。プルミエールの指導陣は父・敬二の後輩で「信頼できる人間がいる」ということも、入団の決め手となった。

 男子に交じってサッカーをする環境は、南野にとって貴重な経験となった。スピードや当たりの強さなど、それまで経験したことのないレベルの中でプレーすることができた。そしてそんな環境の中で、南野は自身の武器を強く意識するようになった。それは、技術である。
「足元の技術だけは負けたくない」
 そう強く思っていた南野はプルミエールでの約3時間のチーム練習に加えて、毎日居残りで練習に励んだ。練習試合のある週末は、朝から夕方までサッカーに明け暮れた。

 男子選手からレギュラーを奪うことはできなかったが、女子の県選抜に選ばれるなど、周囲の南野に対する評価は高かった。すると2006年9月、中学3年となっていた南野に、ある知らせが届いた。15歳以下(U−15)女子日本代表候補に選出されたのだ。ポジションはクラブで務めていたサイドMFではなくサイドバックだったものの、その年代の最高峰の実力を持つ選手が集う合宿に、南野は招集された。

 合宿には現在、なでしこジャパンに選出されている吉良知夏(浦和)、12年U−20W杯3位メンバーの柴田華絵(浦和)などが参加していた。参加選手は「私とは全然違った」と南野が驚くほどすべてにおいてレベルが高かった。紅白戦では柴田とマッチアップする機会があったが、「ボールを取ることができなかった」という。得意なポジションではなかったことを指し引いても、自分とトップ選手との間には、大きな差があることを認めざるを得なかった。

 合宿後に発表されたU−15代表のメンバーの中に、彼女の名はなかった。南野は「レベルが違ったので、選ばれないだろうと思っていました」と淡々と振り返ったが、父・敬二は当時の状況を次のように明かしてくれた。
「代表メンバーに残れなかった時、亜里沙は隠れて泣いていたそうです」

 落選して悔しくないはずはなかった。もっとレベルアップして、日の丸を背負う――。そのために、南野は徳島から出ることを決意する。彼女が研鑽の場に選んだのは岡山県にある作陽高校だった。

(第3回へつづく)

<南野亜里沙(みなみの・ありさ)プロフィール>
1991年11月26日、徳島県板野郡板野町出身。作陽高―関東学園大―ノジマステラ神奈川相模原。社会人チームでプレーしていた父の影響でサッカーを始める。小学生時は女子サッカークラブの板野プリマヴェーラFCに所属。小学5年の時には、徳島県選抜として全国大会準優勝を経験した。中学ではプルミエール徳島でプレー。中学3年だった06年にはU−15女子日本代表候補に選出された。作陽高校では1年時から主力を務め、全国大会に出場。関東学園大学では3年夏にFWへコンバートされ、2013年関東大学女子サッカーリーグ1部の得点女王に輝いた。今季からなでしこチャレンジリーグのノジマステラ神奈川相模原に入団。1部昇格を目指すチームの得点源として活躍している。身長156センチ。背番号19。
>>ノジマステラ神奈川相模原公式HP



(文・写真/鈴木友多)


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