徳島県外の高校で勝負する――。高校の進路を決めるにあたり、南野亜里沙と父・敬二は話し合ってこの決断に至った。なぜなら、当時、徳島県には女子サッカー部のある高校が1校しかなかったからだ。南野は複数の高校の練習に参加した末に、作陽高校(岡山)への進学を決意した。入学前の作陽女子サッカー部は創部間もないこともあり、部員数が11人未満だったという。それでも進学を決めた理由として、父・敬二は「練習参加した時にトレーニングの楽しさに惹かれたようです」と教えてくれた。また、作陽はなでしこリーグの岡山湯郷Belleの下部組織でもあるため、間近で宮間あや、福元美穂といった日本代表で活躍するトッププレーヤーに触れられるのも魅力だった。
 前を向き続けられる強さ

 作陽に入学した南野は、当時の湯郷監督・本田美登里の目に留まり、たびたびクラブの練習に参加した。練習では宮間と1対1で対峙する機会もあり、父には「刺激になるし、いいところを自分のモノにしたい」と充実した様子を語っていたという。

 作陽では1年からレギュラーを張り、数々の全国大会に出場。国民体育大会の岡山選抜に、宮間らとともに選ばれるなど、南野は順調にステップアップを果たしていった。

 ところが、である。2009年1月、南野はアクシデントに見舞われた。出場していた全日本女子ユース選手権で、試合中に左足前十字靭帯を断裂。手術は成功したものの、全治まで半年の時間を要することになった。

 選手生命にかかわる重傷を負い、長期間、大好きなサッカーをすることができない。だが、父・敬二によると、南野は「やってしまったものはしょうがない」と言って一切、落ち込んだり、弱音を吐いたりはしなかったという。南野を指導したことのある者は共通して彼女の「心の強さ」に感心する。どんな状況でも前を向き続けられることこそが、南野の一番の武器なのかもしれない。

 手術後は、7月の全国高等学校女子サッカー選手権での復帰を目指したが間に合わず、実戦復帰は秋にずれ込んだ。それでも、長いリハビリ期間がもたらしたものは小さくなかった。父・敬二は語る。
「かなり厳しいリハビリをやっていました。でも、それを乗り越えて復帰した時は、キックの精度もより正確になっていましたし、試合中の走行距離も伸びていました。体付きもアスリートらしくなっていた。ブランクはありましたが、また成長しているなと感じましたね」

 南野が復帰した作陽は、09年皇后杯で日本女子サッカーリーグ2部の清水第八プレアデスを撃破し、同1部の東京電力マリーゼと対戦することになった。当時のマリーゼには現なでしこジャパンの鮫島彩、元代表の宮本ともみなど、国内屈指の選手が揃っていた。南野たちは「1部のチームにも、いい試合ができるかもしれない」と強敵との対戦を楽しみにしていたという。

 しかし、実力差は予想以上に大きかった。作陽は0−8でマリーゼに一蹴されたのだ。振り返って南野は語る。
「技術、スピード、試合運び……すべてのレベルが違いました。個人としても、チームとしても、何もさせてもらえなかった。現実を知りましたね(苦笑)」

 それでも、南野の心が折れることはなかった。マリーゼとの一戦を経て、「もっと上のレベルでやってみたい」という思いが強くなった。大学進学を希望していた南野はレベルが高いと言われる関東の大学に進むことを考えていた。そして複数の大学のセレクションを受ける中で、作陽の監督に関東学園大学を紹介された。関東学園大は関東大学女子サッカーリーグ1部(関カレ)で、09年度全日本大学女子サッカー選手権(インカレ)では3位に入っていた。練習に参加してチームの雰囲気に触れた南野は、同校への入学を希望。2010年、関東学園大女子サッカー部で新たなスタートを切った。

 自信を得たFWらしいゴール

「ずいぶんボールが足元に収まる選手だな」
 関東学園大学女子サッカー部監督・山口重信は、入学してきた南野の第一印象をこう語った。特に山口が目を見張ったのは、ボールを失わないことだった。
「南野はファーストタッチのボールの置きどころが素晴らしいものを持っていた。だからこそ、簡単にボールを失わないんです。相手が何人いてもボールの置きどころがいいので、奪われずに前に進める。そういった力は大学1年生ながら、チームの中でもトップレベルでした」

 そして、山口は南野のオールラウンド性も買っていた。サイドMFやトップ下など、チームの戦術や状況によって、彼女を起用するポジションを使い分けた。南野にとって、大学時代に様々なポジションでプレーしたことが今に生きている。
「他のポジションの選手の気持ちがわかることは大きいと思います。たとえばDFをやった時の経験は、守る側として『こういう動きをされたら嫌だな』と感じたことを、逆に自分が攻撃する時に生かしています」

 南野は大学1年の夏を過ぎたあたりからレギュラーに定着し、関カレの試合に出場した。体格的には決して恵まれていない南野だが、持ち前の体幹の強さで激しい当たりに耐え、豊富な運動量を生かしたハードワークでチームに貢献。そんな南野を山口は「彼女は心でも戦えていた」と称えた。

 すると2012年8月、大学3年となった彼女に大きな転機が訪れた。国民体育大会の群馬選抜として関東予選に臨んだ際、チームのワントップの選手がケガで試合に出られなくなった。そこで、トップ下を務めていた南野に白羽の矢が立った。というのも、群馬選抜のスタッフ陣に山口が入っており、彼が南野のFW起用を進言したのだという。なぜ山口はそれまで関東学園大でワントップとしてのプレーが皆無に近かった南野を推したのか。
「前線の起点になれ、仕掛けられるし、タメもつくれる。ワントップとして何の問題もないという判断でした」

 南野自身は「ワントップは体を張って、ポストプレーもやらないといけない。自分にできるのか」と不安を抱えていたが、迎えた山梨選抜戦ではゴールを奪ってみせた。これには、山口も期待していたとはいえ、驚きを隠せなかった。FWに最も求められるのはゴールである。その意味で、いきなりゴールを奪って見せた南野にはストライカーとしての資質が備わっていたといえるだろう。群馬選抜での活躍もあり、南野は関東学園大に戻った後もFWで起用されることになった。

 同年の関カレ開幕戦(対筑波大)で決めた得点は、南野にとって「FWとしてやっていく自信を得た」ものとなった。味方との連係からDFラインの裏へ飛び出して陥れたのだ。このゴールを、彼女は「FWらしいゴールだった」と笑顔で振り返った。

 この年、南野は9ゴールを挙げ、得点ランキングトップには届かなかったものの、ベストイレブンに選出された。FWを主戦場にして間もなく、彼女は大学女子サッカー界で一目おかれる点取り屋に成長した。
「次こそは得点女王になる」
こう強く意識して臨んだ大学ラストシーズンで、南野は更なる飛躍を遂げることになる。

(最終回へつづく)

<南野亜里沙(みなみの・ありさ)プロフィール>
1991年11月26日、徳島県板野郡板野町出身。作陽高―関東学園大―ノジマステラ神奈川相模原。社会人チームでプレーしていた父の影響でサッカーを始める。小学生時は女子サッカークラブの板野プリマヴェーラFCに所属。小学5年の時には、徳島県選抜として全国大会準優勝を経験した。中学ではプルミエール徳島でプレー。中学3年だった06年にはU−15女子日本代表候補に選出された。作陽高校では1年時から主力を務め、全国大会に出場。関東学園大学では3年夏にFWへコンバートされ、2013年関東大学女子サッカーリーグ1部の得点女王に輝いた。今季からなでしこチャレンジリーグのノジマステラ神奈川相模原に入団。1部昇格を目指すチームの得点源として活躍している。身長156センチ。背番号19。
>>ノジマステラ神奈川相模原公式HP



(文・写真/鈴木友多)


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