「Most Improved Player」(MIP)とは、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)で前シーズンと比較して最も成長した選手に贈られる賞である。2013−14シーズンのMIP賞を受賞したのが、東京サンレーヴスのガード(G)・井手勇次だ。島根スサノオマジックに所属していた2012−13シーズンは出場19試合(プレイタイムは55分)で12得点に留まった。しかし、東京に移籍した昨シーズンは、レギュラーシーズン全52試合にスタメン出場し、プレイタイムも1884分に増加。平均得点は15.0点(日本人選手で3位)をマークするなど飛躍的な活躍を見せた。井手は今シーズンも東京と契約。キャプテンを任されるなど、チームから大きな期待を寄せられている。
 不遇からの脱出

 井手は2011年に早稲田大学を卒業し、リンク栃木ブレックス傘下のTGI D-RISEに入団した。TGI D-RISEでの1シーズンを経て、12年6月にbjリーグドラフトで島根から1巡目指名を受けた。島根時代は1年目からの活躍を狙ったものの、本人が「ここまで試合に出られない経験は、競技人生で初めてでした」と苦笑するほどの不遇に直面した。

 出場機会は点差が開いた状況でのわずかな時間のみで、彼の強みである攻撃的なプレイスタイルも指揮官から求められることはなかった。出場機会を増やし、勝負のカギを握るような役割を自らに欲していた井手はシーズン終了後、退団することを決意した。島根のチーム関係者と話し合い、保有権を放棄してもらったことで、彼はbjリーグ内の移籍も可能となった。

 移籍先については複数のチームからオファーを受け、契約合意に近づいたチームも2つあった。しかし、いずれも土壇場で契約が白紙となってしまった。2つ目のチームとの交渉が破談した日、井手は翌日に開催される東京のチームトライアウトに参加することを決めた。実は当時の東京では早大の先輩がアシスタントコーチ(AC)を務めており、その先輩から練習参加の誘いを受けていたのだ。

 12年6月22日、井手は出雲空港から羽田空港までの始発便に飛び乗り、東京へ移動した。先輩であるACは井手の特徴を知っているものの、ヘッドコーチ(HC)の青木幹典は彼のプレイを見たことがなかった。ACの評価は高くても最終的に指揮官が欲しがらなければ、移籍実現は難しい。入団するためには、トライアウトで実力をアピールするしかなかった。井手は「やるしかない」と意気込んでいたものの、一抹の不安もあった。当時はシーズンオフだったため、ボールを使ったトレーニングをしていなかったのだ。だが、井手の不安とは裏腹に、彼のプレイはチームから高評価を得た。

「要求することをきっちりこなそうとする真面目で、頑張る選手だな」
 青木はトライアウトでの井手のプレイをこう評した。指揮官はトライアウトの指揮をACに任せ、じっくりと各選手のプレイを観察していた。真っ先に目に留まったのが井手だった。ゲームメーク能力に長け、得点力もある井手は、当時の東京にはいないタイプだった。

 井手はトライアウト後、東京と入団交渉を行うことになった。といっても、彼の気もちは既にかたまっていた。「大事なのは出場機会。待遇については自分が活躍すればいくらでも変えていける」と考え、東京が獲得する意思を示してくれれば、どんな条件でも入団すると決めていたのだ。かくして、井手は東京との契約に合意し、新天地でbjリーグ2年目を戦うことになった。

 強豪相手に示した真の実力

「今年は絶対に結果を残す」
 井手はTGI D-RISE、島根をともに1シーズンで退団した。東京でも大した活躍ができず、また1年で移籍するとなれば選手としてのイメージダウンは避けられない。ゆえに、彼は「もう後がない」と引退も視野に入れるほど、自分を追い込んだ状態でシーズンインした。

 井手は練習から高確率でシュートを決め、指揮官のみならず、チームメイトからも認められる存在となっていった。しかし、青木によると「プレシーズンゲームで、打たなければいけない場面でシュートを躊躇した」ことが何度かあった。なぜ、井手は自身の強みであるシュートを打たなかったのか。青木は次のように分析した。
「彼は真面目な性格なので、積極的にシュートを打つことがセルフィッシュ(自己中心的)にならないかを気にしていたのでしょう。井手に『周りはオマエのことを認めているんだ。遠慮しないでいい』というと、『コーチが打っていいと言ってくれるのなら、僕は決める自信があります』と力強く語ってくれましたよ」

 遠慮というリミッターが外れた井手は、水を得た魚のように躍動し始めた。13年10月12日、東京は敵地で琉球ゴールデンキングス(沖縄)との開幕戦を迎えた。スタメン出場した井手はbjリーグを2度(当時)制している強豪相手に臆することなく積極的に仕掛け、次々とシュートを決めた。31分間のプレイタイムでチーム最多の34得点をマーク。チームの開幕戦白星に大きく貢献した。
「個人的にはどこが相手でも実力を出せると思っていました。島根で目立った成績を残せなかったのは、チームから求められた役割に専念していたからです。その役割が得点やアシストではなかったということ。自分自身、特にプレイ面で変えた部分はありません。活躍につながった要因は、青木さんの信頼を得て、チームの中心として起用してもらったことだと思いますね」
 彼は沖縄戦についてこう振り返った。

 個人としても、チームとしても最高のスタートを切った井手だったが、開幕戦の活躍を他チームが見落とすわけはなかった。沖縄戦以降、彼へのマークは試合を重ねるほどに厳しくなり、マークがついていないオープンな状態でシュートを打てる場面は少なくなっていった。それだけ、井手が東京のキーマンだと対戦相手に認識されていたということの何よりの証である。

 厳しくなった相手の警戒をかいくぐるためのキーワードはスクリーンだった。スクリーンとは、オフェンス時に相手選手の進路を妨げる位置に立ち味方がフリーになるのを助けることだ。井手がスクリーンをして味方選手が活躍すれば、相手はその選手をもマークしなければならず、井手へのプレッシャーが分散する。つまり、スクリーンは味方を助けることでもあり、井手自身がプレイしやすくなる効果もあるのだ。昨季の東京にはリッキー・ウッズという得点力の高い外国人シューターがいたため、スクリーンがはまった時の効果はてきめんだった。

 結局、チームはイースタンカンファレンスで13勝39敗の9位となり、残念ながらプレイオフ進出を逃した。それでも、井手個人にとっては東京でチームの中心としてプレイする機会を得た実りあるシーズンだったに違いない。その意味で、MIP賞は引退も視野に入れていた男が果たした下剋上の証だった。

(後編につづく)

<井手勇次(いで・ゆうじ)>
1988年6月8日、埼玉県生まれ。北陸高―早大―TGI D-RISE―島根―東京。実業団の元選手だった両親がミニバスのコーチを務めていた影響で小学4年からバスケットボールを始める。瓦葦中を経て東和大昌平高に進学するも、1年次の途中で北陸高へ転校。北陸高では中心選手として06年インターハイ優勝、国民体育大会3位、ウインターカップ準優勝を経験した。11年、早大卒業後にリンク栃木ブレックス傘下のTGI D-RISEに入団。12年6月に島根から1巡目指名を受けてbjリーグ入り。東京に移籍した昨季はレギュラーシーズン全52試合にスタメン出場を果たし、MIP賞を受賞した。今季は東京のキャプテンに就任した。ポジションはガード(G)。身長181センチ、体重83キロ。背番号37。
>>東京サンレーヴス公式サイト
>>井手勇次オフィシャルブログ

(文・写真/鈴木友多)

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