監督はチームの中で最も結果を求められる立場だ。
 チームの成績がはかばかしくないときに選手を交換することは、財政的に大きなリスクがある。不甲斐ない大敗、負けが込めば、最初にすげ替えられるのは監督の首だ。だからこそ、監督には大きな権限が与えられてきた。
(写真:指導者としての経験を積んだつもりのトニーニョだったが……。撮影:西山幸之)
 選手を気持ち良くプレーさせることに心を砕く監督、あるいは自ら決めた規律を徹底的に守らせる監督――彼らはそれぞれの流儀を守り、勝利を求める。特に結果を残してきた監督は頑なだ。

 厳しかった指導者としての現実

 元清水エスパルスのトニーニョは、弟のソニー・アンデルソンが所属したFCバルセロナ、オリンピック・リヨンでは監督の理解もあり、練習の見学はもちろん、時に参加することもあった。

 ところがアンデルソンがリヨンからスペインのビジャレアルに移ると事情が変わった。
 ビジャレアルは、バレンシア州のビジャレアルに本拠地を置く、1923年創設の小さなクラブである。1部リーグに初めて昇格したのは、98―99シーズンのことだった。同シーズンで2部に降格したものの、1年で1部へ復帰した。

 この田舎町のクラブを大きく変えたのは、04―05シーズンから監督となったマヌエル・ペリジェグリーニである。
 彼は部外者が練習に関与することを快く思わなかった。また、アンデルソンが結婚したこともあり、自分が一緒にいると新妻が気を遣うだろうと、トニーニョはブラジルへ帰国することにした。

 トニーニョがビジャレアルで印象に残っているのは、アルゼンチン人のミッドフィルダー、フアン・ロマン・リケルメだった。
「彼がバルセロナから移籍してきたんだ。リケルメはバルセロナで上手くいかなかった。リヨンに来たばかりのジュニーニョと同じで、ボールを持ちすぎていたんだ。アンデルソンやぼくと良く食事に出かけたものだよ。リケルメがアンデルソンにアドバイスを求めていたんだ」
 その後のリケルメのビジャレアルでの活躍はご存じの通りだ。

 トニーニョは欧州で指導者としての経験を積んだつもりだった。
 しかし、現実は厳しかった。帰国以降、彼の人生から急速に光が失われていくことになる。

 ブラジルに帰国して、最初に指揮したのは、サンパウロ州ヒベロンプレットのコメルシアルというクラブだった。
「2年ほどプロチームで監督をしていたんだ」
 選手と監督とでは求められる資質が異なる。監督は時に冷酷にならなくてはならない。人のいいトニーニョには難しかったのかもしれない。その後、プロチームからは声が掛からなかった。

地元の学校で子どもたちを教えることもあったという。
「13才から17才、200人ぐらいの生徒がいたんだ。チームはアマチュアだったけれど、支払いは良かった。子どもたちもぼくの指導を喜んでくれたよ」
 しかし、そのプロジェクトも2年間ほどで終わってしまった。

 伝説のラボーナシュート

 トニーニョはしばしばJリーグでプレーしていた時代のことを思い出すという。
「覚えているかい? ぼくは(横浜)マリノス戦で、アジアで最も美しいゴールを決めた。国立競技場だった。あのときのキーパーは日本代表のレギュラーだった。何て言う名前だったかな。マツナガ? そうかもしれない。あの後、同じようなゴールを決めた奴はいるか? いないだろ」
 96年5月1日、エスパルス対マリノス戦のことだ。トニーニョはペナルティエリア付近の混戦から、右足を左足の後ろから回してシュートを決めた――ラボーナキックである。強いシュートではなかったが、キーパーの松永成立の間合いを外した。Jリーグの草創期を代表する、美しいゴールだった。
(写真:トニーニョが日本復帰を果たす時は来るのか。撮影:西山幸之)

「強いラボーナを蹴るには、踏み込みが大切だ。しっかりと軸足を保ち、足を大きく振る」
 トニーニョはそう言うと、右足を振って見せた。

 やはり清水に一番愛着があるのかと尋ねると、彼は深く頷いた。
「4年もあそこにいたからね。ヴェルディ(川崎=現東京?)にはぼくがいた時代の人間が誰もいないと聞いた。都並(敏史)、戸塚(哲也)、加藤久といった人間だ。未だにぼくのところにメッセージをくれるのは清水のサポーターが多いんだよ」

 トニーニョは「日本を出たのは失敗だった」と呟いた。
「日本に戻りたい。3部のチームでもいい。ぼくは日本では名前を知られているだろ? ぼくが監督をすればスポンサーを集められるはずだ。ぼくはテレビ番組の収録で2度、日本に帰ったことがある。アルシンドやリトバルスキー。ブッフバルトと共演した。4、5才の男の子がぼくの飛行機の真似をしているって聞いたこともある。小学校を回って指導してもいいんだ」

 この日は日曜日で、町が死んでしまったかのように道路には車通りがなかった。太陽の強い光がじりじりと街を灼いていた。
 そんな長閑で、光に溢れた街の中でトニーニョは浮かない表情だった。日本で多額の金を稼いだのだが、周囲に奪われてしまったという噂を思い出した。

 15時過ぎ、中国人らしいアジア人が経営するバールがシャッターを下ろし、辺りはすっかり静かになった。トニーニョとぼくたちは静かな田舎町にぽつんと取り残されていた。

 彼の頭の中には、今も煌びやかなJリーグの姿が残像として残っているようだった。
 そのトニーニョにJリーグはすっかり生気を失っていること、日本人は過去の名選手のプレーを忘れやすいということは、とても口にすることはできなかった。

「いつか日本で会おう」
 別れ際にぼくが手を差し出すと、トニーニョは「いつか、ね」と弱々しく笑った。その笑顔がしばらく頭から離れなかった。

(この項終わり)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『怪童 伊良部秀輝伝』(講談社)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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