2013年8月末、ニューヨーク――。
「初めまして。ようやく会えましたね」
 中村武彦が手を差し出したとき、これまで彼と顔を合わせたことがなかったことに改めて気がついた。
(写真:LeadOff Sports Marketing GMの中村。山田卓也や広山望らの米国移籍を手掛けてきた)
 中村とは幾重にも縁があった。
 彼の存在を認識したのは、FCバルセロナの国際部で働く日本人がいるという記事をどこかで見たときだった。その後、元ジェフユナイテッド市原の要田勇一の弟である章がニューヨークで働いている時、中村に世話になったと聞かされた。章は大学時代『スポーツナビ』でアルバイトしており、そこで原稿を書いていたぼくと知り合っていた。中村もまたスポーツナビでアルバイトしていたという。

 またぼくが広山望のリッチモンドの自宅に滞在している時には初めて中村と電話で話した。元日本代表の広山は2011年、ザスパ草津から米国のUSL(ユナイテッド・サッカーリーグ)、「リッチモンドキッカーズ」へ移籍した。その移籍を手伝ったのが中村だった。中村はバルセロナを退職した後、リードオフ・スポーツ・マーケティング(LeadOff Sports Marketing)という会社のゼネラル・マネージャーとなっていた。

 中村との距離がぐっと縮まったのはそれから2年ほどしてからのことだ。
 2013年夏、ぼくは故・伊良部秀輝の評伝『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)の取材の仕上げに取りかかっていた。ニューヨーク・ヤンキースなどメジャーリーグでプレーしていた伊良部を描くには、米国での取材は必須だった。ブラジル行きのトランジットで頻繁に降りるロサンゼルスでは協力者もおり取材を進めていたのだが、ニューヨークには殆ど土地勘がなかった。

 ニューヨークではヤンキースのジーン・アフターマン副社長、メジャーリーグ選手会顧問弁護士のジーン・オルザ、元千葉ロッテマリーンズ監督のボビー・バレンタインなど、伊良部の人生にとって重要で、同時に細かな気遣いの必要な取材を控えていた。そこでぼくはニューヨーク在住の中村を頼ることにしたのだ。

 小学生の頃のあだ名は“ハイパー・ロス”

 中村は1976年に東京都町田市で生まれている。銀行員だった父親の転勤により、生後6ヶ月でニューヨークに移った。4歳で、ロサンゼルスへ、そして9歳10ヶ月の時に日本に帰国した。
(写真:ニューヨークでの取材者の1人、元千葉ロッテ監督ボビー・バレンタイン)

 ロサンゼルスでは平日は現地の学校、土曜日だけ日本人学校に通っていたため、日本語に不自由はなかったが、細かなニュアンスを読み取ることが出来なかった。

 ある日、1人の友だちが中村の家へ遊びに行きたいと言い出したことがあった。その話を聞きつけた周りの友だちが次々と「オレも入れて」と言ってきた。中村は何に入れるのだろうと意味が分からなかったが、頷いた。母親には友だちが1人遊びに来ると伝えていた。すると、家には多くの同級生がやってきた。入れてというのは、仲間に入れて欲しいということだと中村はその時に気がついた。

 文化の違いについては、こんなエピソードもある。
「米国の学校ではランドセルがなかったので、日本に帰国してからも毎日リュックサックで通っていました。そうしたら『毎朝、遠足気分ですか』って、笑われた。それで急いでランドセルを買いに行ったんです」
 中村は当時のことを思いだして苦笑いした。

 どこか周囲とずれている中村につけられたあだ名は「ハイパー・ロス」だった。
中村が帰国した84年はロサンゼルスオリンピックが開催されており、「ハイパーオリンピック」というゲームが流行っていた。このゲーム名とロス帰りを合わせてつけられたのだ。

 そんな中村を一気に日本に溶け込ませたのは、サッカーだった。
 同級生から「米国にいたから読んだこと、ないでしょ?」と漫画『キャプテン翼』を全巻もらった。これがきっかけとなり、中村は米国でも少しプレーしていたサッカーを、地元のチームに入って本格的に始めることにしたのだ。それからは、徐々に友達も増えていった。

 交渉でGKからフィールドプレーヤーに

 小学6年の3学期、中村は住んでいた神奈川の日吉から町田市へ引っ越した。進学した町田市立鶴川第二中学校サッカー部は都内でも有数の強豪だった。2つ上の3年生には、後に日本代表に選ばれる山田卓也がいた。山田とは家も近く、親同士も付き合いがあったが、雲の上の人ともいえる存在だった。山田の他に、1つ上の学年には、帝京高校に進み全国制覇する池浦悟などの有望選手もいた。中村は1年生の仕事であるボール拾いをしながら、山田たちの巧さに目を見張っていた。このときは山田と自分の人生が将来、交差することなど想像もしていなかった。

 入学当初、中村はゴールキーパーをやらされていた。ただ、練習試合では味方は攻撃してばかりで、キーパーの出番はなかった。点が入ると皆が輪を作って喜んでいるのが羨ましくて仕方がなかった。

 顧問に「自分はフィールドプレーヤーをやりたい」のだと直訴したが、「キーパーがいなくなる」と一蹴された。そこで中村はディフェンダーの選手を、自分の代わりにキーパーをやってくれるように説得した。この交渉が実り、中村は晴れてサイドバックとなった。

 サッカーが生活の中心にあったが、それ以外はどこにでもいる中学生だった。まだJリーグは存在しておらず、サッカーを職業にしたいなどと考えたことはなかった。中村は“高校の3年間を大学受験で消耗すべきではない”というどこかで耳にした言葉に影響を受けて、推薦で系列大学まで進学できる高校を受験した。そして、慶応義塾高校と青山学院高等部の2つに合格。周囲は慶応進学を薦めたが、中村は青山学院を選択した。

「慶応は男子校だったんですね。受験に行った時、コート脱いで椅子に置いたら、埃がついた。一方、青学は綺麗だし、女性が多く華やかな雰囲気だった。それでぼくは青学に行く、と」
 両親は中村の意思を尊重してくれたが、塾関係者の他、ほとんど面識のない親族にも大反対されたのだと頭を掻いた。 

 彼は高校でもサッカーを続けることを決めていた。しかし――。青山学院高サッカー部に入り、中村は愕然とした。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『怪童 伊良部秀輝伝』(講談社)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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