中村武彦は、町田市立鶴川第二中学校から、青山学院高等部に進んだ。青山学院高等部のサッカー部は、後に日本代表に選ばれる山田卓也たちがいた鶴川第二中学と比べると、かなりレベルは落ちた。中村は仲間とボールを追うことは楽しくて仕方が無かったが、物足りなくなった。そこで、高校3年のときに三菱養和クラブのトライアウトを受けた。合格したのは二人だけ、中村はその一人だった。
(写真:1993年のJリーグ開幕は華々しいものだった。初年度、チャンピオンシップのプログラム)
 無縁でも感じたサッカーの盛り上がり

「(トライアウトは)受かったんですけれど、自宅のある鶴川から三菱養和のある巣鴨まで通うのは遠すぎました。ただ後から考えたら、三菱養和には永井(雄一郎)選手や後にア メリカへの移籍をサポートした西村卓郎とかがいたので、“行っていたらなぁ”と思いますよ」

 10代から20代前半は、人生で感受性の豊かな時期である。この時期に出会った人間、触れた映画、音楽、その他諸々の刺激がそれ以降の人生の大枠を形成していくものだ。
 中村にとっての多感な季節は、ちょうど日本サッカーの変革期と重なった――。高校2年の5月、Jリーグが開幕したのだ。

 だが、中村がJリーグ以上に記憶に残っているのは、同年8月に日本で開催された17歳以下の世界選手権だった。
 日本代表はイタリア、メキシコ、ガーナといった強豪のひしめくグループリーグを勝ち抜き、決勝トーナメントに進出した。準々決勝で優勝したナイジェリアに1対2で敗れたものの、若き才能の胎動を十分に感じさせる結果となった。

「(観戦に行ったのは)ガーナ戦だったかな。国立(競技場)で中田(英寿)、宮本(恒靖)がいたときです」
 ゲームプログラムを開くと、米国代表にロサンゼルス時代の幼なじみの顔写真を見つけた。
「ジョン・オブライエンという選手で、ぼくがロスにいた頃はサッカーをしていなかったんです。サッカーとは無縁の子でした。日本、アメリカ、世界でサッカーが盛り上がってきているんだなと思いました」

 このときは自分が弱小高校のサッカー部でプレーしていたこともあり、ピッチの中は遠い世界としか思えなかった。そして、サッカーを仕事にしようなどと思ったこともなかった。
「自分とは無縁の世界だなと。そして大学のサッカー部に入ったら、さらに無縁だと思うようになりました。世の中には上手い人間は、それこそ腐るほどいるのだと思い知りました」

 進学した青山学院大学のサッカー部にはスポーツ推薦で入って来た学生が多くいた。彼らの巧さに中村は圧倒された。“2軍”の試合に出られるようになったのは3年生のときだった。身体的能力や技術で劣ったとしても、頭を使えばサッカーができることを当時の監督から教わったのだ。

 試合出場の機会は限られていたが、サッカー部で一生の友人ができたことは大きな財産だと中村は思っている。

 大学4年生となり、就職活動を始めた。彼はとにかく英語を使え、国外に出られる仕事に就くつもりだった。
「自分の英語が錆びついているのは分かっていました。もう1回磨き直そう。英語を使える、海外に繋がる会社に入ろうと」
 面接で「入社して何をしたいのか」と訊ねられると、「英語を使える仕事でやっていきたいです」と答え続けた。
 中村は3つの企業から内定を貰い、その中で海外事業部に配属すると約束してくれたNECに入社することにした。

 引っかかった上司の言葉

 入社後、中村は北米営業部に配属された。
「AT&Tやベライゾンとか海外のキャリアネットワーク向けに光ファイバーを売る仕事でした。ネットワークが普及したらコンテンツを載っけるビジネスをしなければならないとか、技術者が話をしているんです。今でこそ、何をやっていたのか分かりますけれど、当時は自分が何をしているのか分からなかった」
 会議に出席しながら、中村は何も発言できなかった。
(サッカーのことならば、いくらでも話せるんだけれど)
 と肩身の狭い思いだった。

 一方、一緒に働いている技術者たちにとっては、大学の研究の延長線上にあるのだろう、仕事の細かな創意工夫を楽しんでいるように見えた。
「彼らの詳しい話の内容は理解できなかったです。ただ、仕事を抜きにして楽しそうなこと。そして本質を話していることは分かりました。自分が“アメリカ市場はこうです”とデータを基にして話しているのはうわべだけだなと思っていました」

 上司は文系学部出身であったが、技術的な内容にも詳しかった。あるとき、中村がその知識に「凄いですね」と漏らしたことがある。
 上司は「勉強したもの」と事も無げに言った。
「そうですよね。元々興味があったんですか?」
 中村が訊ねると上司は首を振った。
「いや、全くなかったから大変だったんだよ」

 そして、こう付け加えた。
「大変なことだから、仕事は金をもらえるんだよ」
 上司の言葉に中村はなるほどと思いながらも、引っかかりも感じた。
(興味のないことを無理矢理、勉強するのではなく、興味のあることを勉強すればスーパーサラリーマンになれるのではないか)

 そのとき、漠然と自分の最も好きなこと――サッカーを仕事にすることを考え始めた。
 そんな中村の背中を強く押すことになったのは、米国出張だった。米国にNEC現地法人子会社を立ち上げるための研修が目的だった。

「ぼくは上司と二人で座っていると、向こうはマーケティングの人間が出て来た。相手はMBAをとっている専門家でした。彼はぼくが法学部出身でセールス部門を担当していると言うと、怪訝な顔をした。なんでお前のような人間がいるんだと。その後、契約書類の会議になると、法務部の弁護士が出て来た。彼はロースクールを出ていた。ぼくが法学部を出ていると聞くと、どうしてセールス部門で働いているのか理解できない様子でした。会計の話になると会計士が出てくる。みんなそれぞれの専門家なんです」

 自分はこれからも様々な分野を広く浅く担当することになるだろう。NECの中では使える人間となれるかもしれないが、専門分野で年々経験を積み重ねて行く彼らと比べると、個人的なスキルはどんどん差が開いていくことだろう。中村は焦りを感じた。

 自分は専門家になりたい。しかし、何の専門家になるのか――。
「中田(英寿)のプレーの専門家になるか、なんてギャグを自分で言いながら笑っていました」
 こう笑った中村だが、実はこの米国出張では、彼の人生を決定づける出合いがあった。
 米国で始まっていたメジャーリーグサッカー(MLS)である――。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『怪童 伊良部秀輝伝』(講談社)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
◎バックナンバーはこちらから