「序盤で16メートル39を投げて、“ここからだ!”という時に伸ばし切れませんでした」
 こう振り返る宮内育大の表情には、今でも悔しさがにじみ出ていた。7年前の2008年8月、埼玉インターハイ・陸上男子砲丸投げで宮内は予選1投目を失敗したものの、つづく2投目で16メートル13を投げて予選通過記録(15メートル20)を突破した。事実上の“一発クリア”を果たし、決勝前の練習でも好調を維持。追手前高校陸上部監督の岡村幸文には、他校の指導者の「これは宮内が優勝だな」という声も聞こえてきた。それほど、宮内の調子は良かった。迎えた決勝でも、1投目で16メートル39の自己ベストをマークして1位に躍り出た。しかし、2投目以降で記録を伸ばせず、最終順位は5位。競技終了後、宮内に笑顔はなかった。


 逆転につながった恩師の言葉

 インターハイ前に出場した四国総体で、公式戦初の16メートル台を突破した。その勢いは、インターハイ・決勝の1投目まで持続していたといっていい。ただ、宮内は失速した。その要因を、岡村は次のように分析した。
「彼は試合後に『先生を日本一にしたかった』と言ってくれたんです。そういう気持ちが知らず知らずの間にプレッシャーとなって、彼を空回りさせたのかなという思いもしましたね」
 モチベーションは高まりすぎると、時に“気負い”となり得る。「優勝したい」「岡村先生を日本一にしたい」という強い思いが、この時は宮内の重りとなっていたのかもしれない。

 ただ、全国制覇のチャンスはまだ残されていた。国民体育大会(国体)である。宮内はインターハイから約2カ月後の大分国体で優勝するために、一層、トレーニングに励んだ。岡村によると、「宮内はインターハイで5位に入賞した時の賞状を机の上に置いてた」という。あの時の悔しさを忘れないためだった。

 迎えた10月3日、宮内は高校最後の全国大会に臨んだ。5投目を終えた時点での順位は5位。このままでは表彰台にも届かない。また、インターハイの時のような悔しさを味わうのか――。プレッシャーに押しつぶされそうになっていた宮内だが、ある男の言葉で、彼は冷静さを取り戻す。声をかけたのは岡村だ。
「最後は思い切りいってこい」
 宮内は岡村の言葉で「自分の中で何かが吹っ切れた」という。「ただ思い切り、自分が今できることを最大限に」との気持ちで押し出した砲丸は、その日初めて16メートルラインを突破し、それまで1位だった選手の記録も抜いた。16メートル62。高校時代最後の1投で、宮内は自己ベストを更新するとともに、逆転優勝をも手繰り寄せた。

 競技終了後、宮内と岡村はがっちりと握手を交わした。両者の目からは涙があふれ出した。
「少しでも諦めたり、気を抜いたりしていたら6投目で絶対に逆転はできません。やはり、彼の誠実さ、コツコツ積み重ねてきたことが、実を結んだんじゃないかなと思います。宮内がいろいろな経験をして、それを次に生かそうとして、そういう段階を踏んでいった結果でしょう。彼の誠実さや真面目さ、周囲の意見を受け入れるようなところが出たんじゃないかなと。彼とはずっと、一喜一憂してきました。本当に悔しい時もあったし、嬉しい時も一緒に分かち合ってきた。だから本当に、優勝した時の心境は涙、涙でしたね」
 岡村は教え子の快挙を心から称えた。宮内も「岡村先生との出会いがあったからこそ、今の自分がある。少しは恩返しができたかなと思います」と悲願の全国制覇を振り返った。宮内は高校ラストシーズンをまさに有終の美で飾った。

 大学1年目で味わった悔しさ

 宮内が高校卒業の進路に選んだのは、日本大学だった。日大陸上部監督の小山裕三と親しい今治明徳陸上部監督の浜元や日大OBの高知県関係者が宮内の日大進学を後押しした。宮内としては、教員になるという夢のために国立大学の受験も考えていた。その場合は陸上を辞めるという覚悟もあった。しかし、彼は日大で砲丸投を続けることを選択した。
「国体で優勝したものの、高校生一番の祭典はインターハイ。そこで優勝できなかったことで、“このままでは終われない”という気持ちが強くありました」
 宮内は、自分の正直な思いに従ったのだ。

 日大陸上部は大学陸上界屈指の名門だ。宮内が高校3年の時点で14度の日本学生陸上競技対校選手権大会(全日本インカレ)総合優勝(男子)を誇り、日本記録保持者も多数輩出。特に砲丸投は4連覇を3度(第32回〜第35回、第46回〜第49回、第56回〜59回)記録していた。宮内は入学前にこれらの情報を知って、「すごいところだな」と驚いた。入学後、陸上部のグラウンドには名門の名に違わぬ光景が広がっていた。

「日本代表の先輩だったり、インターハイで優勝したり、世界ユースでメダルを獲得した同期もいました。それだけでも“レベルが高い集団だな”と驚いたものですが、寮がすぐ近くにあるため、何時に来ても誰かが練習している。すごく質が高いなと」
 宮内がこう語ったように、日大陸上部ではOBの09年世界選手権やり投げ銅メダリスト・村上幸史(現スズキ浜松AC)や砲丸投で8度の日本選手権優勝を誇る畑瀬聡(現総合警備保障)らが練習している。特に同じ砲丸投の畑瀬は、「大学に入って、最初に参考にした投げ方が畑瀬さん」と語るほど宮内が尊敬する存在だ。常に高いレベルに触れられる環境が日大陸上部にはあった。

 選手のレベルが高ければ、指導者のそれも推して知るべしだ。監督の小山は砲丸投で全日本選手権を2連覇し、日本記録保持していた元トップ選手。宮内は日大入学前の3月に参加した沖縄合宿で、初めて小山の指導を受けた。
「技術をイチから直されたという感じですね。体の使い方ですね。「ここを意識してみろ」といわれて意識していると、いつの間にか、ビデオを撮ってみると実際は違うところが2、3カ所直っていた。もう魔法をかけられているかのような感覚でした」

 大学最初の実戦となった東海大学との対抗戦では、オープン参加し、13メートルに終わった。ただ、これは砲丸の重さが高校時代の6キロから、7.26キロに上がったことが大きく影響していた。「重量が上がったことに対応しきれなかった」のだ。重さへの順応は時間が解決してくれる。宮内にとって、大学生活最初の試練は、この後に訪れた。

 東海大との対抗戦後に、関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)に出場する日大の代表選手の学内選考会が行われた。砲丸投は3名が選ばれるが、すでに持ち記録が学内で上位2人は代表に内定している。宮内は、最後の3枠目を2人の先輩と争ったが、代表選手の座を掴むことができなかった。この時の落選が、宮内にとって衝撃だった。高校時代は大会に出られないということはなかったからだ。結果的に、関東インカレで日大の砲丸投の選手たちは、ひとりも入賞することができなかった。試合には出ていないのに、敗者という烙印を押された気がして、彼は言い知れぬ悔しさを抱いた。

 また、代表選手と控え選手の差も大きかった。大会当日、代表選手が試合のスケジュールに合わせて調整しているのに対し、控え選手は早朝に競技場へ行って応援場所を確保する。普段の練習でも、応援練習をしている控え選手を傍目に、代表選手はトレーニングを行っていた。
「自分もあちら側になりたい。もう二度とこの悔しさは味わいたくない」
 こう心に誓った宮内はその後、砲丸投のレギュラーに定着。文字通り、日大を代表する選手へと成長していった。

(最終回へつづく)

宮内育大(みやうち・いくひろ)
1990年6月14日、高知県生まれ。大杉中時代はソフトボール部に所属。中学3年の時に参加した陸上大会の砲丸投で優勝したのをきっかけに陸上競技の世界へ。追手前高陸上部では高校2年時にジュニアユースで2位、3年時は総体5位、国体優勝の成績を残す。日大進学後は全日本インカレで3度の優勝を経験。日本選手権では13年、14年と2年連続で3位に入った。自己ベストは17メートル82。身長183センチ。投法はグライド投法。



(文・写真/鈴木友多)


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