「技術が一気に変わった年」。宮内育大は、大学2年の1年間をこう表現した。というのも、宮内は自己ベストが初めて17メートル台を突破したのだ。関東インカレでは16メートル23の記録で優勝したものの、その後、関東以外の大学で16メートル後半を投げる選手たちが出てきた。その選手たちとは全日本インカレで戦うことになる。宮内は「このままだと負けるんじゃないか……」と一抹の不安を抱えていた。そんな彼の不安を拭い去るきっかけになったのは、成田合宿で日大陸上部監督・小山裕三に受けた指導だった。
 改めて感じた砲丸投の奥深さ

 宮内が指摘されたのはリバース動作だ。競技中、投げて砲丸が着弾するまでにサークルから出てしまうとファールになる。そうならないように、砲丸を投げた後に前後の足を入れ替えるのがリバース動作だ。宮内は、小山に言われたとおり、リバース動作の精度向上に取り組んだ。すると、彼の中で、ある変化が表れた。
「それまでは砲丸をゆっくり押し出すようなイメージでしたが、リバースの技術が高まるにつれて、砲丸をパチンコ玉のように弾いて飛ばすという感覚になりました」

“弾き出した”砲丸の距離は、17メートルを越え、自己ベストを1メートル以上も更新した。「17メートルを投げられる」という自信を得た宮内は、同年9月の全日本インカレで17メートル10を叩き出し、同大会初優勝。ファールをしないためのリバース動作が、飛距離アップにつながる。彼は砲丸の奥深さを改めて感じた。

 2010年は日本選手権で6位、国体で5位とトップレベルの選手が集う大会で入賞も果たした。それでも、宮内は「技術を身につけても日本トップレベルの選手にはまだ及ばない点がある」と感じていた。そのひとつがメンタル面だ。宮内によると、トップ選手は独特の雰囲気をまとっているという。張りつめた空気の中で、いかに自分のペースを保てるか。この点で、彼は「周囲に気後れしていた」と分析した。
「トップ選手は、自分のペースをつくり、試合を展開していきます。“何投目にこのくらいの距離を投げれば、相手はひるむ”というように計算しているんです。試合展開の面で、自分はまだまだですね」

 また、宮内は安定感も自分に足りない要素だと考えていた。それを強く意識したのは、2011年の全日本インカレだ。宮内は16メートル53で2位に終わった。対校戦の全日本インカレでは、各種目の入賞選手の所属大学にポイントが付与される。1位・8点、2位・7点と1点刻みで、8位は1点となる。対校得点で日大と早稲田大学が69点で並んだものの、種目別優勝数の差で下回った日大は総合2位に甘んじることになった。宮内は、「自分が優勝していれば総合優勝できた」と悔やんだ。
「自分がそういうところでしっかりしないと、みんなにも迷惑がかかり、悲しい思いをさせてしまう。そう自覚しました。では何を変えなければならないのかと考えた時、辿り着いた答えが手にした技術を定着させることでした」

 持っている技術を生かせられれば、17メートルは堅い。しかし、どこかに狂いが生じると、全日本インカレのように16メートル台中盤という記録を叩くこともある。どんな状況でも技術を安定して発揮できるようになること。それが宮内の課題だった。全日本インカレ後、彼は徹底的に基礎技術の反復練習を行った。それこそ、走る、跳ぶといった陸上の原点ともいえる能力アップにも取り組んだ。

 地道な努力が成果として表れたのは、翌2012年シーズンだ。宮内は関東インカレで17メートル35、全日本インカレで17メートル31をマークして優勝。日本選手権でも17メートル4を投げて自己最高の4位に入った。技術を定着させて安定感を得る――。コンスタントに17メートルを記録した結果が、彼の取り組みが間違っていないことを証明していた。

 目指し甲斐ある世界

 年が明けた2013年、宮内は日大大学院に進学した。大学院1年目で、宮内は自らの立場にある変化を感じる出来事があった。5月、中京大学の山元隼が、東海インカレで17メートル88をマークした。山元は宮内より1学年下の選手。宮内は初めて年下に、自己ベストを上回られた。これを受けて彼は「自分も後ろの選手から追いかけられる立場になってきたんだな」と感じたという。そして「自己記録では上回られていても、直接対決で負けない」との信念を山元にのみならず、日本中の選手に対して持つようになった。同年の日本選手権。宮内は17メートル76の記録で3位に入り、同大会で初めて表彰台に上がった。勝負にこだわる姿勢が、宮内をひとつ上の段階へと導いたと言っていいだろう。

 2014年5月には“世界”を経験した。宮内は自身初の国際大会となるセイコー・ゴールデングランプリに出場。出場選手には09年世界選手権金メダリストのクリスチャン・キャントウェル(米国)など、世界の強豪が名を連ねていた。その中で、宮内は17メートル82の自己ベストをマークして4位に食い込んだ。強豪相手に健闘したといえるが、本人は冷静に世界との差を分析していた。
「腕の太さ、体幹の厚さなど、やはり体格的な差は大きいと感じざるを得なかったです。また海外の選手は技術面でも優れていましたね」

 宮内と同じくらいの体格でも、世界では20メートル以上を投げる選手が多い。ゴールデンGPでも、宮内より少し身長が高いチェコ人選手が19メートル5で3位に入った。うまく体を使い、体格面のハンデをカバーしていた。そうした世界レベルを目の当たりにして、宮内は何を感じたのか。
「目指し甲斐があるなと。今、日本人の最高記録は18メートル台ですが、誰かが19メートルを越えれば、ポンポンと続くように19メートル台を投げる選手が出てくると思うんです。その“誰か”に自分がなりたいですね」

 思えば、競技経験が浅い中で臨んだ高校2年のインターハイでも、宮内は周囲との実力差に打ちひしがれた。しかし、彼は挫折することなく、上を目指した。世界との差を見せつけられてなお、「目指し甲斐がある」と語ったのは強がりではない。心からそう思っているからだ。

 日本人初の19メートル越えへ、宮内の可能性を感じさせるエピソードがある。追手前高校の恩師・岡村幸文によると、宮内はバック投げの飛距離が19メートルを超えていたという。バック投げとはフィールドに背を向け、両手で持った砲丸を後ろに投げる練習。その飛距離と普段のグライド投法での飛距離はほぼ同じになるといわれている。つまり、宮内には19メートルを投げるポテンシャルが備わっているということだ。

 当面は日本記録(18メートル64)の更新が目標となるが、もちろん、勝負にこだわり、戦う舞台も高みを目指す。
「日本選手権で優勝し、日の丸をつけて世界、アジアの大会に出ていきたいですね。そして、2016年リオデジャネイロ五輪、2020年東京五輪、その次の五輪も視野に入れていこうと考えています。特に東京五輪の時、自分はちょうど30歳。ぜひ、出場したいですね」

 日本記録更新、日本代表入り、五輪出場……。こうした目標をひとつひとつ達成していった時、宮内はどのようなショットプッターに成長しているのか。その答えを求めて、彼は砲丸で放物線を描き続ける。

(おわり)

宮内育大(みやうち・いくひろ)
1990年6月14日、高知県生まれ。大杉中時代はソフトボール部に所属。中学3年の時に参加した陸上大会の砲丸投で優勝したのをきっかけに陸上競技の世界へ。追手前高陸上部では高校2年時にジュニアユースで2位、3年時は総体5位、国体優勝の成績を残す。日大進学後は全日本インカレで3度の優勝を経験。日本選手権では13年、14年と2年連続で3位に入った。自己ベストは17メートル82。身長183センチ。投法はグライド投法。



(文・写真/鈴木友多)
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