中村武彦がメジャーリーグサッカー(MLS)で働いているとき、物足りなさがひとつだけあった。それは、リーグ全体のために仕事をしているため、クラブチームで働いているのと違い、ひとつひとつの勝敗に一喜一憂できないことだ。選手と一体になり、彼らと一緒に勝利も敗戦も噛みしめる――。
(写真:2014年には、日本人で初めてマドリッドにある「ISDE Instituto Superior de Derecho y Economia」の国際スポーツ法グローバルエグゼクティブマスター課程を修了した。提供=中村武彦)
 バルサ勤務の恍惚と現実

 だからこそ、2009年にスペインのバルセロナFCから声を掛けられたときは、飛び上がらんばかりの気持ちだった。世界で最高のクラブで働けるのだ。中村はMLSの人間と相談して、バルセロナFCのニューヨークオフィスに“転籍”という形で移ることになった。

「ちょうど、バルサがニューヨークのオフィスを立ち上げた時期でした。当時のスタッフは3人。ぼくの担当は北米、アジア、オセアニア。担当テリトリーが半端なく広かったです」
 念願のクラブチームで働くことは中村にとって楽しい経験だった。

 しかし――。
 スペインは複数の王国が結びついたという歴史的背景があり、地元に対する愛着度が強い。スペイン内戦で反政府軍が本拠地を置いたバルセロナは、特に首都マドリッドへの対抗意識が強い。バルセロナFCは、カタルーニャ州の魂ともいえるクラブである。

 バルセロナFCに対するカタルーニャ人の愛情は中村にとってむせ返る程だった。その中で仕事をするうちに、自分はアウトサイダーであることをはっきりと意識した。そして、日本のスポーツのために仕事ができないかという思いが中村の中で頭をもたげてきたのだ。
「カタルーニャの人たちが自分の誇れるクラブで働いている姿が羨ましかったですね。どうしてもぼくには自分のクラブではないという気持ちがありました。スペイン語も話せませんしね」

 バルセロナFCの中国ツアーに同行しているとき、家族の関係で日本へ戻らなければならないことが起きた。しかし、中村が日本に戻ることは許されなかった。
「アメリカほど、ファミリーを大事にするという文化がなかった。このままバルセロナで働いていたら、もし、親の身に何かが起こったとき、日本に帰ることができないかもしれないというのは大袈裟ですけれど、融通は利かないなと」

 また、MLSと比べるとクラブチームではやれることが限られる点も窮屈だった。そこで、中村は1年働いた後、リードオフスポーツマーケティングという会社に転職することにした。
 リードオフスポーツマーケティングは、元々は日本と野球のビジネスをするために立ち上げられた会社だった。中村はその中でサッカー事業を一から立ち上げることになった。

 国外で結果を出す選手の条件

 リードオフスポーツマーケティングは、日本人選手にアメリカのクラブチームの紹介もしている。
 そのひとりに山田卓也がいる。中村は山田と同じ鶴川第二中学校出身であることはこの連載で触れた。その後、大学時代に山田と再会している。

「たまたま(中村の所属する)青学と(山田のいた)駒澤(大学)がおなじ会場だった日があったんです。向こうは大学サッカーの花形選手。覚えていないだろうなと思いながら挨拶に行ったら、おおって。鶴二の選手が頑張っているのは嬉しいって。嬉しかったのは僕のほうですが。」

 以降、山田との交流は続いていた。山田が東京ヴェルディから出るとき、MLSで働いていた中村はアメリカでプレーしませんかとメールを出したことがある。そのとき、山田はまだ自分が行く時期ではないとセレッソ大阪を選んだ。その後、山田はセレッソから横浜FC、そしてサガン鳥栖に移った。

「鳥栖との契約が終わったとき、タンパに新しいクラブが出来るというので、そこのトライアウトを受けましょうという話になった」
 10年、山田はトライアウトを受けてアメリカのUSSFD2(MLSの下部リーグ)に加盟予定だったFCタンパベイに入った。USSFD2は北米サッカーリーグ(NASL)と形を変え、山田は今も同じクラブに所属している。立ち上げからプレーする選手は山田だけである。

 これまで中村はアメリカにやってくる数多くの日本人アスリートを手助けしてきた。山田のように国外で結果を残す選手にはある共通点があるという。
「ピッチ外の人間関係を作れるかどうか。ピッチの中で巧い人は、いっぱいいますけれど、ピッチの外で文化の違い、食べ物の違いを受け容れて、友だちを作れるかどうか。語学を習得する意欲も必要ですね。ピッチの外が上手くいなかった人は楽しくなかったとだいたい言います」

 現在、中村は数カ月ごとに日本とアメリカを往復する毎日である。日本はまだ可能性を完全に活かしていないと感じることがある。
「たとえば、グローバルなスポーツなので、日本のクラブチームも選手と同じように優秀な人を獲ってくればどうだろうか」

 MLSというアメリカのサッカーリーグ、そしてバルセロナFCで働いていた。国外にいるからこそ、自分が日本人であることを強く意識することがある。
 欧州のサッカークラブを訪れ、その施設、長期的な視座に則った経営を知ると、日本のサッカーが世界から取り残されるかもしれない、いても立ってもいられない気持ちになることがある。日本人だからこそ、日本のサッカーを良くしなければならない。中村はそう強く考えているのだ。

(この項終わり)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日−スポーツビジネス下克上−』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち—巨大サッカービジネスの闇—』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克 英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)。最新刊は『怪童 伊良部秀輝伝』(講談社)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。
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