今年は武藤嘉紀がドイツのマインツへと移籍した。欧州の移籍市場が開くたび、日本の有能なサッカー選手が動くことはもはや年中行事となった。UEFA主催のチャンピオンズリーグに繫がった欧州の主要リーグのクラブは、Jリーグと比べてレベルが高いだけでなく、資金も潤沢である。日本以上の好条件を提示されて欧州に向かうことは、プロのアスリートとしては極めて理に適っている。
(写真:松原(右)は海外移籍が一般的ではない時代に各国を渡り歩いた)
 かつてはそうではなかった――。
 ぼくは2000年から03年にかけて、広山望という選手を追いかけて、パラグアイのセロ・ポルテーニョ、ブラジルのスポルチ、ポルトガルのブラガ、そしてフランスのモンペリエと世界を飛び回っている。

 パラグアイではサッカーは貧困から這い上がるための手段だった。
 広山はレンタル移籍でセロ・ポルテーニョに加入した。セロで貰える金は、彼が当時所属していたジェフ市原よりも安かった。パラグアイ人の選手たちは、どうしてわざわざ貧しいリーグでプレーする必要があるのだと首を捻っていたことだろう。

 その後、彼が移籍したポルトガルのブラガやフランスのモンペリエでは収入面は改善したものの、日本代表歴のある彼ならば国内に居続けた方がずっと実入りが良かっただろう。
 それでも彼が国外にこだわったのは、日本にない“何か”を知りたいと強く思ったからだ。サッカーが文化として根付いた熱狂の中でプレーすることは何物にも代えがたかったのだ。

 この頃、日本はサッカーの世界で新参者だった。日本代表は98年フランス大会でワールドカップに初出場したばかりだった。日本人であるというだけで、選手としての評価は落ちた。そうした偏見とも闘わなければならなかった――。

 広山と同じ時期、国外を渡り歩いた選手の一人に、松原良香がいる。彼もまた日本にない何かを求めて、傷だらけになりながら世界を転がった男だ。

 ぼくが松原に初めて会ったのは、02年10月あたまのことだった。
 そのとき、ぼくは広山の取材でポルトガルを訪れた後、パラグアイを経由してブラジルのサンパウロに入っていた。知人から誘われて、サンパウロ州のグアラチンゲタというクラブで練習参加している松原を観に行くことにしたのだ。

 日本にいたときから松原の噂は耳にしていた。ただ、その噂は決して良いものではなかった。
 アトランタ五輪でブラジル代表に勝ったことを鼻にかけた生意気な若手選手――というものだった。その松原がどうしてグアラチンゲタのような小さなクラブで練習をしているのだろう。どんな男なのか一度、会ってみようと思ったのだ。

 グアラチンゲタというサッカークラブの歴史は浅い。
 クラブが設立されたのは98年10月のことだ。翌99年11月、元ブラジル代表のリバウド、セザール・サンパイオが設立したマネジメント会社「CSR」が経営に加わり、サンパウロ州のB2(5部リーグ相当)に参加した。

 リバウドたちが考えたのは、このクラブで若手選手を育成し、国内外のクラブへ売却することだった。しかし、サッカー選手が胸に抱く理想と現実はしばしば乖離するものだ。02年、CSRはグアラチンゲタで成果を上げることができず、経営権を手放した。松原が練習に参加したのは、その直後のことだった。

 グアラチンゲタのスタジアムはブラジルらしい、素っ気ないものだった。観客席に椅子はなく、コンクリートが段になっているだけで、申し訳程度に観客席を覆う屋根がつけられていた。
 この日は他のクラブと練習試合が行われていた。日に焼けて頭をそり上げた松原は右サイドバックに入っていた。
(写真:決して恵まれた環境ではなかったグアラチンゲタの施設)

 日本でプレーしていたときに比べると胴回りに肉がついているようだった。本来、フォワードである彼にとってサイドバックは不慣れなはずだった。それでも、キックの質は高く、中央で待つセンターフォワードの選手にきっちりと合わせていた。ただし、センターフォワードの選手はそのボールを得点に繋げることはできなかった。その程度のレベルのチームだった。松原のような選手がいるべきクラブではなかった。

 試合が終わると、松原はベンチで観ていたぼくたちのところへ挨拶に来ると、手を差しのべた。
「筋トレしてきますね」
 そう言うとクラブの中にあるジムに向かった。

 夕刻、ぼくたちはグアラチンゲタの選手たちと同じレストランで食事を取ることになった。そこで松原と話をすることになった。
 松原はウルグアイから来たばかりだった。彼にとってウルグアイは高校卒業後、サッカー留学をした場所だ。ぼくが会う半年前、代理人からウルグアイのデフェンソールに移籍するという話をもらったという。ところが行ってみると外国人枠は埋まっており、登録さえできなかった。仕方がないので指導者の勉強をすることにした。

 それでもプレーをしたいという思いがあった。そこでシーズンのスケジュールが緩やかなブラジルのクラブが契約してくれるかもしれないという話を聞きつけたのだ。
 しかし、時期が悪かった。
 州リーグはもちろん、全国リーグも終わりに近づき、ごく一部のクラブを除いてオフシーズンに入りつつあった。そこで軀を鈍らせないために、グアラチンゲタで練習に参加しているのだという。

 その夜、ぼくは松原と別れてサンパウロに戻った。
 彼がサンパウロに来たのは、それから2日後のことだった――。そのときは彼との付き合いが長く、そして深くなるとは思ってもいなかった。


田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクション作家。1968年3月13日、京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て 99年に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)など。14年に上梓した『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。15年7月に『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)を発売。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。


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