二宮: 川島さんはお父さんの影響で小さい頃からボクシングを始めました。お父さんのボクシング経験は?
川島: 本人はやっていないんです。オヤジは理容師で、その勉強で東京にいた時にボクサーと知り合ったそうです。それからボクシングに興味を持ったと聞きました。
 他の競技はすべて“敵”

二宮: 当時、憧れのボクサーといえば誰でしょう?
川島: 具志堅用高さんが好きで、小学生の頃から、「(具志堅の所属していた)協栄ジムか、ヨネクラジムに入れ」と言われていました。実は小学生の時に具志堅さんと電話で話したこともあるんです。どんないきさつか知らないですけど、現役の世界チャンピオンが電話の向こうにいる。ド田舎の人間ですから、ドキドキしましたよ。

二宮: 自宅にボクシングジムをつくるほど、お父さんは熱心だったとか。
川島: ボクシング以外はかなり犠牲にしていましたね(苦笑)。近所や親戚との付き合いもほとんどしない。でも、そのおかげで世界チャンピオンになれたわけですから、今になってみるとありがたい話です。いざ、僕がオヤジの立場になってみて、同じことができるかと言ったら、なかなか難しい。道をつくってくれたことに関しては、ものすごく感謝しています。

二宮: 他のことには目もくれず、ボクシング一筋だったと?
川島: 僕の地域はバスケットボールが強かったので好きでした。野球も人気でやりたかった。でも、オヤジからしてみれば、他の競技は全部“敵”なんです(苦笑)。

二宮: では、友だちから「野球やろうぜ」と誘われても「ダメだ」と行かせてくれない?
川島: その通りです……。ただ、マラソンは「1番になれ」と言われていました。皆が学校で指定されたジャージと靴で走る中、僕はひとりだけランニングと短パン。靴もオヤジが買った軽いものを履かされました。要は、マラソンはボクシングのトレーニングの一環で、ボクサーと同じ格好をさせられたんです。それがもう嫌で嫌でした(笑)。

二宮: 高校は海南高(現・海部高)に進学します。ボクシング部はなかったそうですね。
川島: 徳島県のチームに所属するかたちで、インターハイや国体の予選に出ていました。

 メキシコ修行の兄に学ぶ

二宮: お兄さんの志伸さんもボクサー。当時、日本では非公認だったIBFのタイトル(世界フライ級)に挑戦するほどの実力がありました。
川島: 兄は高校時代、新垣諭さん(元IBF世界バンタム級王者)と一緒にメキシコに行っているんです。ルペ・マデラ(元WBA世界ライトフライ級王者)のいるジムで、練習方法が日本とは全然違う。兄はゴムボールをつきながらシャドーをやったり、新しいトレーニングを持ちかえったんです。

二宮: それがテクニシャンの原点になったわけですね。
川島: パンチの打ち方から兄のマネをしながら教わりました。ボクシングのスタイルも日本にはないもので、メキシコはすごいところなんだなと思いましたね。そこから少しずつ興味を持って、自分でもビデオを観て研究するようになりました。

二宮: まさにボクシング漬けですね。
川島: 徳島だと教えてくれる人間がいないので、テレビのボクシング中継が教材でした。ビデオを擦り切れるほど観て、技術を覚えていったんです。

二宮: 同期には、のちの鬼塚勝也さん(元WBA世界スーパーフライ級王者)やピューマ渡久地さん(元日本フライ級王者)がいました。彼らを知ったのはいつくらいですか。
川島: 高校2年くらいですね。その時、ライトフライ級で鬼塚がチャンピオンになったんです。そして3年になった時、鬼塚と渡久地が階級を上げて同じフライ級にやってきた。フライ級でチャンピオンを狙っていたので、正直、「なんで、上げてくるんだよ」と思いましたね。

二宮: インターハイでは、その鬼塚さん、渡久地さんを両方破っての優勝。高校を卒業してヨネクラジムに入門します。ヨネクラジムを選んだ理由は?
川島: おそらく契約金の関係だと思います。当時は今のようにプロになってからも父親が出てきてセコンドについたりする時代ではありませんでした。プロに入ったら、ジムに任せる。それが当たり前だったんです。

二宮: それでも、今のボクシング界に通じる父親による英才教育のはしりと言えるかもしれませんね。
川島: そうでしょうね。オヤジは僕がプロになってからも、記者とかに長い手紙を書いて売り込むんです(笑)。息子に勝ってほしい一心だったんでしょうけど、当時の僕はオヤジのことを拒絶していました。オヤジの気持ちが理解できたのは亡くなってからですよ。ちょっと気づくのが遅かったですね。

(第3回につづく)
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川島郭志(かわしま・ひろし)プロフィール>
 1970年3月27日、徳島県海部郡海部町(現・海陽町)出身。幼少時から父よりボクシングの英才教育を受け、海南高(現・海部高)時代にはインターハイのフライ級で優勝。高校卒業後、ヨネクラジムに入門し、88年8月にプロデビュー。鬼塚勝也、ピューマ渡久地とともに平成三羽ガラスとして注目を集める。だが、プロ4戦目の東日本新人王決勝戦で渡久地に敗れるなど、挫折も経験。デビューから4年経った92年7月に日本スーパーフライ級王座を獲得する。同王座を3度防衛したのち、94年5月に世界初挑戦。ホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)を判定で下し、WBC世界スーパーフライ級王座に就く。同王座を6度防衛し、約2年9カ月にわたってベルトを保持し続けた。97年2月に敗れて失冠し、現役引退。00年に川島ボクシングジムを開設し、後進の指導にあたるとともに、テレビ中継の解説者としても活躍している。



(構成・写真:石田洋之)


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