巨人のV9は1965年から73年にかけてだ。すなわち今年は、V9がスタートしてから50周年にあたる。
 「巨人、大鵬、卵焼き」という流行語でもわかるように、当時の子供たちの大半は巨人ファンだった。


 V9巨人においてON(王貞治と長嶋茂雄)は別格として、次に人気者だったのがトップバッターの柴田勲である。
 戦後初のスイッチヒッター。しかも俊足でハンサムときている。甲子園では法政二高のエースとして夏春連覇を達成してもいる。

 トップバッターだから、テレビに映る機会は野手の中で一番多い。
 通算579盗塁。これは今に至るもセ・リーグ記録である。柴田が引退して、34年間たった今も破られていない。

 柴田の何がカッコイイといって、出塁するやいなや、おもむろに後ろのポケットから手袋を取り出す、その姿である。
 仕事のできる男が、“さぁ、一仕事してくるか”と腕まくりをする仕草にも似て、少年の私はしびれたものだ。
 手袋とはいっても、そんじょそこらのシロモノではない。これが真っ赤なのだ。目立つことこの上ない。

 ピッチャーにすれば、“さぁ、走るぞ”と一塁から挑戦状を叩き付けられたようなものだろう。「ルパン三世」を相手にする「銭形警部」のような心境だったに違いない。

 過日、本人から話を聞く機会があった。なぜ“赤い手袋”だったのか。意外な答えが返ってきた。
「実は最初は女性ものだったんです」
 目が点になる、とはこのことだ。

 柴田は続けた。
「入団6年目の67年、巨人は米国のベロビーチでキャンプを張りました。ドジャースのキャンプ地です。
 そこで僕はヘッドスライディングを教わった。当時の僕はフックスライディングしかできなかった。それで両手をすりむいてしまったんです。
 そこで、手袋を探しに行った。近くのゴルフショップで見つけた手袋は、どれも大きくて日本人の手には合わない。ピタッときたのが赤い手袋、それが女性用だったんです」

 余談だが、日本でカラーテレビの出荷台数が5万台を超えたのは東京五輪が開かれた64年である。72年にはNHKのカラー受信契約が1000万件を突破した。
 今にして思う。柴田の“赤い手袋”が新鮮に映った背景には、カラーテレビの急速な普及もあったのではないか。

 その柴田も71歳である。

<この原稿は2015年7月17日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>


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