競艇の植木通彦選手が20日、都内で記者会見を行い、現役引退を発表した。植木は「選手生活20年という節目を機に現役引退を決意しました。自分の描いた当初からの考えでしたので、何卒ご理解いただきたいと思います」と突然の引退に至った理由を説明した。90年代以降、圧倒的な強さを誇り、“艇王”と呼ばれた男は颯爽と第一線を退く。
(写真:電撃引退を表明した植木選手)
▼二宮清純特別寄稿「水上の魔術師」
 植木は1968年、福岡県生まれの39歳。86年11月にデビューした。89年1月に桐生競艇場で転覆事故を起こし、再起を危ぶまれる重傷を負ったが、見事に復活。93年の総理大臣杯で初のSG制覇を果たすと、以後、SG競争で10勝をあげている。年間獲得賞金は94年から9年連続で1億円を突破し、02年には歴代1位となる2億8418万4000円を獲得した。生涯獲得賞金は22億6184万2369円(歴代3位)。旋回時にボートの上に立ち上がる“モンキーターン”を取り入れ、その高速旋回で競艇界に革命を起こした。

 ところが今年3月に行われた総理大臣杯(平和島)、優勝戦で1番人気を得ながら痛恨のフライング。ペナルティとして1年間、SG競争の出場権を失っていた。
「しばらく充電期間をいただき、少しでも業界に恩返しできるような仕事を考えたい」
 競艇界に記録も記憶も残したスターは、今後もボートとともに生きていくつもりだ。

 植木選手の引退に寄せて、当HP編集長・二宮清純が93年に行ったインタビュー記事を掲載する。この年、植木選手は総理大臣杯を制し、競艇界のトップに躍り出ようとしていた。

 水上の魔術師 植木通彦 〜二宮清純特別寄稿〜

 選手生命すら危ぶまれる事故に見舞われたのは、今から4年前のことだった。1月16日、桐生競艇場。タイトル戦3日目、5コースから勢いよくマーク目がけて飛び出していったがバランスを失い転覆。気がつくと後続艇が引き起こす波の中にいた。

「意識もはっきりしていたし、最初は大したことないと思っていた。そのうち救急車がやってきて乗せられたんですが、“今のレース、フライングだったんじゃないですか?”とまわりの人に聞いてたくらいですから。で、返ってきたセリフは“植木君、そんなことを言ってる場合じゃないんだよ。今は自分自身のことを考えなさい”。病院に着くなり、手術台に乗せられました……」

 後続艇のプロペラに顔中を切り裂かれ、75針も縫うという重傷を負った。手術後、初めて自分の顔を鏡で見るなり、植木は『ウォッ!』と驚きの声を発してしまった。まるで別人のように感じられたからだ。
 4か月にも及ぶ入院生活。息子の傷だらけの姿にショックを受けた母、スエ子さんは「もう、やめたらどうね」と哀願の口調で言った。「もし目でも潰れていたら、いったいどうするね」

 思い悩んだ挙句、9か月後、植木は復帰を決意する。カムバックに選んだ場所は重傷を負った桐生競艇場だった。
「とりたてて意識したわけじゃないんです。ただ、桐生の方にはいろいろと迷惑をかけたのでそのお返しがしたかっただけ。ひさびさのレースは怖くてね。清めの塩をどっさり水面にまいてもらったことを覚えています」
 つとめて明るい口ぶりで、植木は言った。

 植木は1968年4月26日、北九州の小倉で3人兄弟の長男として生まれた。甲子園にも出場経験のある県立小倉商では、2年時からサードのレギュラー。野球少年の誰もがそうであるように甲子園を目指した。
 同学年には、その後、近鉄バファローズからドラフト1位指名を受けた桧山泰浩という超高校級投手がいた。植木はバットを短く持って、評判の豪速球を迎え打った。

「いや、全然打てなかったですね。僕らとは実力が一段も二段も違っていましたよ。野球をやる上では、僕の体は小さい。しかし、競艇なら勝負になるんじゃないか……」
 一年発起した植木は、養成所の試験を受ける。どうせ不合格に決まっていると諦めているところへ、合格通知が舞い込んできた。
 高2の秋、植木は競艇選手になることを決意する。

 本栖研修所は厳しい訓練をすることで知られている。自衛隊のある師団が体験入所したところ、数日ももたなかったという逸話が残っている。不凍湖ゆえに訓練が中止になることもない。
「研修所から学校に変えると、同級生たちのやっている挨拶がいい加減に見えてしまったものです」。そう言って植木は苦笑を浮かべた。
 
 競艇の世界には水神祭という独特の“儀式”がある。デビューして初めて勝利を手にした新人は、先輩たちの手によって水面に投げ入れられるのだ。
 植木の水神祭は、デビューから15走目。くしくも、その日は大みそかだった。

「あれはいいもんですよ。やっとプロになった実感がわいてきたのを覚えています」
 懐かしそうな口ぶりで、植木はつぶやいた。過去を懐かしく振りかえられるのは一流選手の特権と言える。現在、植木の獲得賞金は約7300万円で賞金ランキングの3位につけている。

 競艇は300メートル間隔で設置された2つのターンマークを3周して先着を競う競技。いかにスピードを殺さずにマークを旋回できるかが勝負を左右する。フェニックス・ターンと呼ばれる植木の独特なターン技術は、ライバルたちにとって羨望の的となっている。

 植木が言う。
「2年前からこのターンを始めたんですが、きっかけはたまたまなんです。これからはまくりだけじゃ勝てない。まくり差しもしないと……と思って試行錯誤しているうちに自然にこのターンができるようになった。だけどこのターン、プロペラが船に合ってないとうまくいかないんです。プロペラが合わないというのは雪道をチェーンを巻かずに走るのと同じこと。いい結果は出ないんです」

 船底に足を張り、わきを締める。これがボートを安定させる基本なのだが、植木のフェニックス・ターンはこの反対をいく。危険をともないはするが華麗であり、だからスタンドのファンを魅了して止まないのだ。
「よくファンから“植木さんは他の人とは乗り方が一味違う”と声をかけられます。プロである以上、こう言われるのは本当にうれしい」
 植木をして“ターン革命をもたらした男”といわれる所以である。

 今年3月23日、優勝賞金3000万円を争う総理大臣杯を制した。5コースからの進入、不利が予想されたが、果敢に1マークに飛び込み、2マークでトップに立った。フェニックス・ターンはさえ渡り、今村豊、野中和男といったSGレースの常連を圧倒した。翌日のスポーツ紙は「植木時代の到来」と書き立てた。
「勝った瞬間はアレッという感じでしたが、素直に“辞めないでここまで頑張ってきてよかったなァ”と思いましたよ。ケガをしても応援を続けてくれたファンや迷惑をかけた人に、少しは恩返しができたかな、と……」。植木はつぶやいた。

 競艇は第1マークの攻防が勝負の帰すうを決する。そこで敗れ去った者に逆転の可能性はほとんど残されていない。一切の妥協なく自らの力でマークという名の扉をこじ開けられる者のみが勝者としてレイを首に飾ることができるのである。
「さすが植木やといわれるレースをしたい。身上はスピード、それにマークを常に責める、それが僕の持ち味ですから」
 
 攻め続ける意志を確認することによって、彼は人生の大切な第1マークを、回ろうとしている。

<この原稿は『ビックコミックオリジナル』「BY-PLAYER」にて掲載されたものです>