少し前の話になりますが、うれしいニュースが飛び込んできました。カープでともに戦ったペーさん(北別府学)と津田(恒実)が野球殿堂入りを果たしたのです。

 ペーさんはチーム初の200勝を記録したカープ黄金期のナンバーワンピッチャー。津田は気持ちをむき出しにした投球が印象的なクローザー。カープ史上、もっとも記録に残る選手と記憶に残る選手がそれぞれ選ばれたと言っていいでしょう。

 ペーさんは現役時代、本当にかわいがっていただきました。200勝を達成した1992年7月の中日戦では勝ち越し打を放ちましたし、僕も結構、勝ち星に貢献しているのではないかと思います(笑)。事実、ペーさんから「オレが投げる時は、西田がよう打つ」と言われたものです。

 外野から見ていてもペーさんの投球術は素晴らしいものがありました。右バッターにはインスラとシュートを使い分けていましたし、左バッターには緩いカーブでうまくタイミングを外していました。特に阪神のランディ・バースには強かった印象があります。

 91年にカープがリーグ優勝した時には、ペーさんは晩年にさしかかっていましたが、ブルペンでバッター役を何度か務めさせてもらいました。当時は本人曰く「あまり落ちない」フォークも使って、打者を打ち取るピッチングを心がけていましたね。納得がいかないと何球でも放り、打席に立っているこちらが疲れてしまったほどです(笑)。こういった妥協しない姿勢が213個の白星につながったのでしょう。

 一方の津田は1960年生まれの同い年。彼とは高校時代からの付き合いです。初めて一緒になったのは3年夏の甲子園後。全日本高校選抜に選ばれ、韓国に遠征しました。その時は南陽工の津田、能代の高松直志、高知商の森浩二が全日本の主力投手。なかでも津田のボールは速い上に角度があり、「これはスゴイ!」とビックリしたものです。

 直球で押す強気のピッチングとは裏腹に、グラウンドを離れると本当にいいヤツでした。韓国遠征では初めて見る洋式トイレの使い方がわからず、便座の上に乗って和式スタイルで用を足したり、おもしろい一面もありましたね。

 プロで一緒になってからは、彼は抑えの重責をひとり背負っていたように感じました。クローザーはリードした場面で出ているのですから、そのまま逃げ切って当たり前。逆転されることはもちろん、追いつかれて先発の勝ち星を消すことも許されません。

 僕もピッチャー経験がありますから、そのプレッシャーは並大抵のものではなかったと感じます。一時期、抑えでの失敗が続いた時には、消え入りそうな声で「スイマセン、スイマセン」とみんなに謝ってまわっていたこともありました。責任感が強い男だけに、ロッカーで落ち込んだ姿を観たのも1度や2度ではありません。

 でも、周りの人間で津田を責める者は誰もいませんでした。あの懸命なピッチングをグラウンドで見ていれば、責める気は起きないでしょう。「津田で負けたら、しゃあない」。これが当時のチーム内の共通認識でしたね。そのくらい津田はみんなに愛されていました。

 ファンの方も、それは同じ気持ちだったのではないでしょうか。津田が現われるまで、日本のプロ野球では中継ぎ、抑えに注目が集まることは、さほどありませんでした。しかし、今や各球団のセットアッパーや抑えはスポットライトを浴びる存在になっています。昨季のMVPに中日の浅尾拓也が選ばれたのは、その典型です。このきっかけをつくったのが津田だったように僕は感じています。

 その意味で津田が球界に果たした功績は大きいものがあります。残念ながら若くして病魔に倒れましたが、野球殿堂入りにふさわしい選手だったと言えるでしょう。

 さて2月1日はプロ野球の“お正月”です。ガイナーズも本日からチーム揃っての練習がスタートしました。NPBのように温暖な土地でキャンプを張れるわけではありませんから、当面は体力強化が中心のメニューとなります。

 今はどの選手もドラフト指名を目標に志を高く持っているはずです。ところがシーズンが進むにつれ、その志を忘れてしまう者もいます。自戒も込めて、日々、初心を忘れないよう選手たちと過ごしていきたいと思っています。

 そして地元に愛される選手、チームでありたいものです。今季の開幕は4月1日と発表されました。よりたくさんの方に応援していただけるガイナーズを目指し、1年間、頑張ります!

(このコーナーは毎月1日に更新します)


◎バックナンバーはこちらから