9月11日、ブラジルW杯アジア最終予選でザックジャパンは、ホームにイラク代表を迎える。グループBは日本とオーストラリアの2強といわれているが、3次予選をトップ通過したイラクの下馬評は決して低くない。

 エースのユニス・マフムードは決定力のあるストライカーで3次予選では6ゴールを挙げ、トップ下に君臨するナシャト・アクラムとのコンビネーションも抜群だ。最終予選はここまで2試合で2引き分けだが、これからが本領発揮というところだろう。

 しかし、何よりこの試合がクローズアップされるのはジーコの存在に他ならない。

 Jリーグ草創期を盛り上げ、そして2002年からドイツW杯までの4年間、日本代表を率いた彼は日本を“第2の故郷”と呼ぶ。思い入れの強い日本で試合をすることに、ジーコはきっと興奮していることだろう。イラク代表監督の給料未払いの問題が解決しているかどうかは分からないが、選手以上のモチベーションでこの試合に臨んでくることは間違いない。

 日本代表監督時代のジーコは、批判にさらされてきた。
 鹿島アントラーズでは総監督を務めた経験もあったが実質的には、ここで初めて指揮官としてのキャリアをスタートさせたと言っていい。ドイツW杯アジア1次予選のスタートで苦戦が続き、サポーターから解任を求めるデモが起こったこともある。

 海外組の優遇、選手のフィーリングを大事にする戦術、メンバーの固定化など、彼の手法に疑問の声がよく上がった。試合前日にスタメンを明かすことも恒例になっていた(ジーコが日本のメディアに協力的だったということもその理由にある)。

 日本人のことを熟知しているとはいっても試行錯誤しながらチームづくりを進め、結果としてドイツW杯では惨敗に終わった。これにより、彼に対するバッシングは最高潮に達した。

 しかし、ジーコが日本代表の将来を考えながら誠意を持ってチームづくりを進めていたことは事実だ。著書『ジーコ備忘録』(講談社刊)にはこのような一節がある。

「私は選手の自主性を重んじている指導者だから、ああしろ、こうしろとは言わない。何が必要で、何をしなければならないのかの判断は個人に任せている。指導者として怠慢ではないかと指摘する人がいるかもしれないが、そういうことではない。自主性を持ち合わせていない選手にはサッカーなどできない。自分でイニシアチブを取れない選手ばかりではサッカーにならない。だから私は常に選手を大人扱いして、自主性を強めることを促している」

 そこで有名になったフレーズが「自由」である。
 だが、この「自由」は何でもやっていいという意味ではない。ジーコの“分身”といわれた通訳の鈴木國弘さんは以前、このように言っていた。

「ジーコが言った『リベラージ』という言葉はポルトガル語で『自由』という意味。ただ、ジーコの言いたいことは、プロとして責任を負ったうえでの『自由』なんです。攻撃でマイボールになったときに何をトライするか。監督の顔色を伺うのではなくて、制約があるなかでも自分たちでチョイスできる権利とでも言えばいいのかな。そういった意味なのに『自由』という言葉だけが一人歩きしてしまった感じがします。

 そしてジーコは、日本人に『和』の大切さを浸透させようとしていました。住友金属からのスタートだったので鹿島でプレーするときはまずプロ意識だったり、ミリ単位で戦術を教えていましたけど、代表に行く前に『どういうチームづくりをしたいんですか?』と聞いたら『鹿島と同じやり方をしない』と言ったんです。

 ジーコには(ブラジル代表が)1982年のスペインW杯で優勝候補に挙げられながらも、チームの『和』が欠けていたために優勝できなかったという人生最大の教訓がある。義の精神がある日本人にはしっかりとした『和』をつくれるんじゃないかと、そういうチームづくりを目指していました」

 前任者フィリップ・トルシエとは真逆の指導法だ。教えられたことをオートマチックにやることに慣れていた選手たちもいたはずである。そんななかで自主性を持った“大人の集団”にしていくには、改革を急すぎたのかもしれない。

 日本を離れてからのジーコは指導者としてキャリアを積んできた。トルコのフェネルバフチェではリーグ制覇を果たし、ウズベキスタンのFCブニョドコルでも優勝。その指導力を買われてCSKAモスクワ、オリンピアコスFCと渡り、昨年夏、イラク代表の監督に就任した。

 国内情勢が不安定ながら、ジーコはイラクサッカーの未来を築き上げるために受諾したわけである。サッカーに対する情熱に、いささかの衰えはない。いやむしろ、増している印象を抱いてしまう。

 指導者としてタフになったジーコは、日本に立ちはだかる大きな敵となるだろう。

(この連載は毎月第1、3木曜更新です)


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