「2年前のあの大震災があって以来、命があるのが当たり前だと思わなくなりました」
 全日本プロレスの田中稔選手は、東日本大震災の現場に偶然居合わせた一人である。

 あの日、石巻市での試合に向けて、川崎市を午前中に出発した全日本プロレスのバスは、多賀城市で大地震にあった。
「高速道路を走っていたのですが、道路と道路のつなぎ目が割れ、バスがあった側の橋ゲタがグラグラし始めて、このままだと倒れてバスごと落下するのではと恐怖に襲われました」

 普通ならパニックを起こしそうな状況だが、選手の中に阪神大震災を経験しているTARU選手がいたため、彼の意見を聞いて迅速に行動したという。
「バスの中は物が乱れ飛ぶほどの凄まじい揺れの中、『死ぬからバスから降りろ』という彼の大声を聞いて、なんとか全員バスから避難しました」
 
 当時の様子を稔選手は、生々しく語ってくれた。その後、どのようにその場所から移動したのか気になり、続きを聞いた。
「バスの中に選手が寝るために積んであった木の板を数枚つなぐようにしてタイヤの下に置き、なんとか割れた道路を突破しました」

 選手にとって巡業をしていくための要であるバスを置いていくわけにはいかず、割れた道路を通行すべく、全員で協力して、なんとか一般道まで辿り着いたようだった。それから石巻方面に向かう途中の山の高台で、トラックの運転手に「今からデカい津波が来るから、これから先へは行くな」と忠告を受けたという。

「僕たちは、高台からあの巨大な津波の第一波を見ました」
 多くの命を奪った津波を目の前にしてしまった以上、彼の心にきっと複雑な思いが今も交錯しているに違いない。冒頭の「命があるのが、当たり前だと思わなくなった」というのは、本当に実感がこもっている。

 日々、ものすごい情報が洪水のように入ってくる日常生活に身を置いていると、ともすれば大震災の事でさえ、色あせてしまう。僕も震災後、被害の大きかった岩手県宮古市の避難所を回ったが、時間とともにその出来事が記憶の隅に追いやられているのも事実だ。だからこそ、あの震災の出来事を忘れぬよう、稔選手に現地での話を何度も聞いてしまうのだろう。

「僕が住んでいる家は、逗子海岸から近いということもあり、あれから2年が経っても震災や被災地のことはいつも頭にありますね」
 現地で被災に合い、津波を目の当たりにした彼は、海を見るたびにあの日の事を思い出すと言う。

「今も自分のできる事は、ずっと続けようという気持ちに駆られます」
 彼は、自宅では勿論のこと、ツアー中のホテルでも節電を常に心掛け、募金などやれる事はずっと続けているそうだ。

 僕も以前のコラムで書いたが、震災があった年からテレビをつけないようにしている。だらだらと見てしまうテレビは、電気消費量が多いと聞く。テレビ中心の生活をしていた僕にとって、一切見ないというスタイルは大きな改革ではあったが、被災地のことを思えば、こんなことぐらいで辛いなんて思ったら恥ずかしい。

 あの震災以来、物を大切することや節電を心掛けるようになり、エコに目覚めた。僕の場合は特に子供向けのキャラクターをやっているだけに、いろいろと見本となっていかなければならないと意識している。

 もうひとつ震災をきっかけに意識改革したことと言えば、家族との時間を大切にする人が多くなったことではないだろうか。
「震災前は、暇があるとすぐにジムに行っていましたが、今は家族と一緒に食事する時間をできるだけ増やすようになりました」

 稔選手も家族との時間を積極的に設けているようだった。震災がもたらしたものは、決してマイナスばかりでもないと思いたい。

 そんな稔選手は、現在アジアタッグ王者として、多忙な日々を送っている。3月17日の両国大会では、ノアを退団した鈴木鼓太郎、青木篤志組とのタイトルマッチも控えているのだ。

 彼に選手権試合へ向けての意気込みも聞いた。
「先日の後楽園でもバーニングの5選手にリングを占拠され、ほんとに悔しい思いをしたので、両国のタイトルマッチでは、すべて力でひっくり返すような内容と結果を残します」

 最後に連日スポーツ新聞などで騒がれている全日買収問題にも少し触れてもらった。
「オーナーが変わっても今以上に試合に集中できる状態にしてもらえるのであればうれしいことですし、選手のパフォーマンス向上につながり、観客動員が上がるという相乗効果になれば良いと思います」
 騒がしい外野の声とは裏腹に冷静に問題を捉えている様子が印象的だった。今は、とにかくリングに集中し、防衛することしか頭にないようだ。

 4月からの新体制を前にした全日本プロレス最後のビッグマッチで、選手たちは一体何を主張するのであろうか? 両国大会の開幕戦は、3・11の前夜だけに復興も意識したメッセージの強い試合を見せてくれるはずだ。

(毎月10、25日に更新します)
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