「えっ!小橋さんが解雇?」
 
 フェイスブックで、このことを知ったのは4日の夕方だった。東スポの一面にデカデカとこの記事が出ていたようだが、それがアップされていたのである。反響は大きく、プロレス関係者の間では、たちまちこの話題で持ちきりとなった。

「一番の功労者なのにクビはないよな」
 早速、プロレス関連の知人が僕に連絡してきた。一部では「引退する」というウワサまで飛び交っていた。事の真相が、その時点ではわからないだけに僕もヘタなことは言えなかった。

「9日の両国大会で、本人から直接ファンへ報告がある」
 プロレスリング・ノアの田上社長からの言葉通り、それを待った。

 そして9日、小橋建太さんの口から現役引退が発表された。

 小橋さんは今年2月に左頸骨を骨折するなどして、欠場中だった。ここ数年、誰の目からも満身創痍であるのがわかるほど欠場を繰り返していた。45歳を迎え、無理が利かなくなってきている年齢だ。さしもの“鉄人”も気力や根性だけでは乗り切るのは難しかったのだろう。

 僕が、小橋さんと試合で初遭遇したのは14年も前になる。小橋さんが31歳で、僕は26歳だった。98年2月、僕は全日本プロレスのリングに上がり、日本武道館で小橋・秋山準組と対戦した。

 ジャイアント馬場さんが健在だった頃の全日本は、シリーズの最終戦を武道館で行なうことが多かった。全日ファンの盛り上がりの凄さに、僕は地に足がついていないような不思議な感覚に包まれた。まるで体がフワフワと浮きそうなほど圧倒されたのだ。

 Uインター時代、何度も武道館での試合を経験していたが、これまでとは比較にならないほどのパワーを観衆から感じた。リングの上で、それほどの感覚に陥ったのは、後にも先にもあの日だけかもしれない。

 当時、三沢光晴選手、川田利明選手、田上明選手、そして小橋さんの4選手は四天王と呼ばれ、ここに秋山選手を加えた5強で繰り広げられる極上のプロレスは、熱狂的な信者を多く生んだ。いつも大きな話題で紙面を賑わす新日本プロレスに対して全日本は試合の中身で勝負をしていたのである。

 そこに外敵である僕や高山善広選手が、鎖国を解禁した全日本に乗り込んだことでファンはさらに熱くなったのであろう。血気盛んだった僕は、全日本スタイルなどお構いなしにバシバシ相手を蹴り飛ばしていったのだが、これを真正面から受けてくれたのが小橋さんだった。

 Uスタイルと王道プロレスは、水と油ほどの違いがあり、試合は噛み合わないと思われていたが、見事にスイングしたのは間違いなく小橋さんのおかげなのだ。その後、僕が全日本所属になってからも小橋さんと試合することは多く、四天王の中では断トツにシングルマッチも数多くやった。

 小橋さんの技は、『青春の握りこぶし』と呼ばれていた頃から魂がこもっていて一発一発がとても重かった。特に必殺技であるラリアットは強烈そのものであった。これをやられると毎回、頭を強打し、意識が飛ぶのである。

 この頃の全日本プロレスは、軽い脳震盪などは日常茶飯事だったように思う。我慢比べと揶揄されてもおかしくないほど危険な技のオンパレードだったのだ。

 その極みは三冠戦である。特に三沢さんと小橋さんとのそれは、目を覆いたくなるほどのシーンの連続であった。セコンドについて見ていると、たびたび目をつぶってしまっている自分がいたほどだ。レスラーから見てもヤバイと思える場面が多かったのである。

 いつだったか、小橋さんがエプロンサイドから場外へ向けて大技を決行したことがあるが、これには本当にヒヤッとさせられた。三沢さんもお返しとばかりに同じような技をしかけていた。相手選手への絶対的な信頼関係がないとできない芸当である。

 しかし、いくらタフであっても所詮は生身の人間だ。巡業が終わり、オフに道場へ行くとそこにはボロボロの小橋さんがいた。体のあちこちが痛いのか、まるでロボットのようなぎこちない動きをしていて痛々しかった。歩き方は、すり足状態で、ヒザも相当悪そうだった。

 道場で上半身を鍛えているのはよく見かけたが、脚のトレーニングをやっているのは、あまり見た記憶がない。やってもレッグエクステンションのマシーンぐらいで、バーベルを担いでのスクワットなどはやっていなかった。練習の鬼と言われた小橋さんがやらなかったのだから、よっぽど酷い状態だったのだろう。

 これが10年以上も前の思い出なのだから、ここまで現役を続けたのが不思議なぐらいだ。5年前には腎臓ガンを克服し、リングにカムバックした小橋さんだが、25年もの選手生活の間に蓄積された傷は、もう限界に達していると思われる。

 コミッショナーなどの制度がないプロレスほど引き際が難しいジャンルはない。特に集客のあるトップ選手ともなれば、なおさらだ。多くのファンが小橋さんの復帰を待ち望んでいたのは十分承知だが、命以上に大切なものはない。

 僕は6年前、頚椎ヘルニアを理由に34歳の若さで引退した。今でも未練がないと言ったら嘘になる。

 だが、その選択は間違っていなかったと信じている。プロレスラーとして年間130試合をこなせなくなったら、もう身を引くべきなのだ。これからは小橋さんの新たなチャレンジに期待したい!

(毎月10、25日に更新します)
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