柔道ルーツ国の日本にあっても、3大会連続でオリンピックを制した選手は野村忠宏しかいない。
言うまでもなくアトランタ、シドニー、アテネ男子60キロ級のチャンピオンである。


その野村が先日、現役引退を表明した。近年はケガに悩まされ、それこそ満身創痍の状態だった。

超一流と呼ばれる選手は、例外なく独自のルーティンを持っている。野村の場合、それは鏡とのにらめっこだった。

以前、こんな話を聞いた。
「試合前、トイレに行くのですが、そこにある鏡で自分の顔を見ます。まず顔を洗い、自分を奮い立たせるために、目にぐっと力を込めます」

いわゆる“目力”の確認である。
「戦う目をしているか、強い目をしているか、生きた目をしているか……」
オリンピック3連覇を達成したアテネ大会では、「一度、鏡で自分の目を見ただけで“よし、行ける!”と確信した」という。

では目力が弱い時は、どうするのか。
「そういう時は、もう1回、顔を洗い、頬を叩いて、わざと自分の顔をにらみつけます。そうして無理やり怖い顔をつくり上げるんです。これは練習の時から意識するようにしています」

野村にとっての闘いは、畳に上がる前から始まっていたのである。

腑に落ちないのは、これほどの偉業をなしとげながら、国民栄誉賞を受賞していないことである。この賞ほど、柔道ルーツ国の威信を守った男にふさわしいものはないようにも思えるが……。

周知のように国民栄誉賞の第1号はプロ野球の王貞治である。ホームランの“世界記録”をつくった1977年、福田赳夫首相(当時)から授与された。

その後もスポーツ界からは、受賞者が相次いだ。
柔道の山下泰裕(84年)、プロ野球の衣笠祥雄(87年)、大相撲の千代の富士貢(89年)、陸上の高橋尚子(00年)、サッカー女子W杯ドイツ大会日本代表(11年)、レスリングの吉田沙保里(12年)、大相撲の大鵬幸喜、プロ野球の長嶋茂雄、松井秀喜(13年)――。

豪華な顔ぶれだが、国民栄誉賞には明確な基準がない。
強いて言えば、次の二つ。
<広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったもの>
<内閣総理大臣が本表彰の目的に照らして表彰することを適当と認めるもの>

中には長嶋のように現役引退後、しばらくたって受賞した者もいる。大鵬に至っては世を去ってからだった。

オリンピックにおいて3大会連続で金メダルを獲った日本人選手は野村以外にはレスリングの吉田と伊調馨しかいない。
レッドソックスの上原浩治は自身のブログに<なぜ国民栄誉賞が野村さんに渡らないんだろう?>と綴っていた。

仮に近い将来、野村にこの賞が授与されたとして、不思議がる人はいないのではないか。

<この原稿は『サンデー毎日』2015年9月13日号に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから